「わたし」は扉を閉めた。パタンでもガチャンでもなく、バン!と。効果音から分かる通り、わたしは急いでいた。特に用事があるわけではないけれど、今日この日に限ってとても暑かったの。太陽がざんざんと刺すような暑さではなくて、少しずつ蝕むような暑さ。分かるかな、毛穴からじんわり浸透するように熱が入り込む感覚。それ。今日の天気がそれだったの。
まあそれもその通りよね、今は七月、夏真っ只中の七月なんだもの。暑いのは当然。けれどわたしの暑さはみんなが感じるような暑さとは比べ物にならなくて。…ああ、そう。館のみんなは知ってるかどうか知らないけれど、読者の方々は知らないだろうから言っておくね。
実はわたし、オトコのコ、なの。…ふふ、そうなの。驚いたかな。それでお察しの通り、わたしって言うくらいだから女装してるんだよね。心は女のコではないんだけど、まあそれには色々な事情があって、今話すにはちょっとヘビーな話すぎるから、また今度。
そして話を戻すけれど、とにかくわたしは女装をしている。こんな暑苦しい日もわたしは「わたし」になっている。だって「俺」で出られるわけがない、「俺」よりも「わたし」の方が可愛らしくて人望もある愛くるしい人間なんだから。だから今日もわたしとして動いていたんだけど、それがとにかく暑いの。わたしの服装は基本的に重たい服ばかり。夏だから極力風が通るような涼しいものを選んでるけど、肌が見えるようになるとどうしても「男」の部分が見えてしまう。それはおかしいでしょう、わたしは「女」なのに。だから薄手だけど長袖のものを着て、今日なんてタイツまで履いちゃって。あまりの暑さに耐えきれなくて、自室まで走って戻ったというわけ。…話が長い?女のコの話なんてこれくらいするでしょう、少しは耐えて。
そうしてわたしはやっと息をついた。誰も居ないからか、少し温度の下がった部屋は特別ひんやりと涼しく感じる。けれどそれも一瞬で、滲んだ汗は暑さを思い出させるようにわたしの頬を舐めた。それが気持ち悪くて堪らなくて、右ポケットに手を突っ込んだ。あれ、左だっけ。まあどちらでもいい、とにかく手に当たったハンカチを取り出すと、ぽんぽん、と押し当てるように汗を拭った。
そのまま、部屋の中心の壁に置かれたかわいらしいピンク色のドレッサーの前に移動する。大きな鏡を中心に、周りはそれを囲うように沢山の引き出しがついている。未だにどれがどこにあるか迷っちゃうほど、たくさんあるのだ。その中から右下から二番目の引き出しと、左の縦長の大きな引き出しを開ける。右下から二番目の引き出しはコンタクト入れで、左の引き出しはウィッグ入れ。…ああ、あとメイク落としも必要だった。今日は疲れたから拭き取るタイプの物にしよう、鏡のすぐ下についた横長の引き出しを開いた。
横長の引き出しから出てきたのは求めていた拭き取るだけのメイク落とし。これすごく楽なんだよね。それだけで少し気分が軽くなったのか、先程より軽快な動きで一枚取りだして目に当てた。じーわじーわ、メイクが浮くような感覚(といってもほぼ勘だけど)がしたときにすっと顎まで下に滑らせる。そしてそのメイク落としを見れば、茶色のマスカラからピンクのチーク、下地までごっそり取れていた。うわあ。そこに顔の全てが凝縮されたみたいで、ちょっと気持ち悪い。それからはさっさと目を離してメイクを拭き取っていく。何度も滑らせ、とぅるんとつっかかる事無く滑るようになったらもう終わり。完全すっぴんの頬に触れつつ、一枚に収まった今日の瑠璃を捨てた。
そしてウィッグを取り外し、引き出しの中にひっそりと潜む生首の「彼女」に髪の毛を受け渡してあげる。受け渡すって言い方も変かな。くす、と笑みを零した。そして彼女もメイク落としもしまい込むと、今度はずいと鏡に大きく近づく。今からはコンタクトを外すという、結構大事な作業。失敗したら傷つけてしまうんだから、緊張は倍増するのよね。机に肘を当てたまま、そっとレンズに手を当てる。そのまま親指と人差し指で優しく、とにかく優しく摘んで取り外した。うあ、ぱしぱしする。ぎゅ、と目を瞑りたくなるのを堪えてもう片方の目も人間に戻してあげる。そしてレンズを水の中に浸せばすぐにきつく目を閉じる。じわじわと涙が滲む感覚が気持ちいい。砂漠に雨が降るように、乾いた目に充分な水が与えられて漸く目を開ける。すぐ目の前にあった鏡に映るのは、ただの人間に戻った自分の姿。ふ、と息をついて、鏡の自分をそっと撫でてやる。
「……今日もお疲れさま、瑠璃」
ああ、これでやっと「俺」に戻った。
──あ〜〜〜くそ!あつい!だるい!あつい!!
先程の女のコは嘘のように暗い単語ばかり流れるようにつらつら並べられる。まあ「俺」と「瑠璃」は全くの別物だから、当然と言えば当然だが。
…何、ずっとかわいい「瑠璃」で話は流れると思ったか?残念だったな読者よ、部屋に入った時点で瑠璃は16歳のくそ生意気で思春期な「俺」になんだよ。嫌なら帰って明日の「1day瑠璃」を待っとけ。
はん、と誰宛かも分からない嘲笑を響かせた。それが部屋の端に響いて消えた途端、じゅんと暑さがにじり寄ってくるような感覚。…う、あつい。部屋に入り込んだときにエアコンは付けたのに、まだ俺を冷やす風はやってこない。壊れてんのか、ふざけんなよ。苛立ちのまま、ちっと舌打ちを零した。
がしゃがしゃと淡黄色の髪をかき乱す。なんか太陽の色みたいだな、くそ、見てるだけであつい。引きちぎってやろうかと思ったけど流石に自分の髪なので辞めた。こんな歳でハゲとか有り得ねーよ。
──はあ、と溜息をついた。無駄に頭を回したせいで余計体に熱が溜まったような気がする。あつい。涼しいところに避難したいところだが、生憎今日の瑠璃は販売終了したのだ。着ぐるみの中の人間が出てったらホラーだろう、もう今日は部屋の外に出ることは出来ない。あーあ、どうせならアイスでも持って上がれば良かった。もう無駄に汗かく前に寝てしまおうか。なんだか風呂に入る気力もなくて、ぼすんとベッドに倒れ込んだ。風呂は明日朝一で入ればいいか、どうせ誰にも会わないんだから。
あーあつい。さっきからそれしか言ってないけれど、本当に暑いんだ。じわじわと滲む暑さの中、横になっていれば自然とやってくる睡魔とそっと戯れようとした。…その、とき。
「ねえ瑠璃、居るんでしょ?返事しなさいよ、」
がば、!と飛び起きた。コンコン、というノックの後に俺を呼ぶ声がして。しかもそれは、俺が大好きで仕方ない、にィに。思わず俺の声で反応しそうになって口を塞ぎ込んだ。少しだけ漏れた声は恐らく聞こえていないのだろう、誰、という言葉は聞こえない。けれど俺が部屋にいるのは何故だかバレバレのようで。
「な、なに、どうしたのにィに」
いまの俺は「瑠璃」になっているだろうか。気休め程度に「女」から奪い取ったウィッグを乱雑に頭に被せて発していたのだが、いまいち効果はない気がする。絶賛いま変なポーズなんだろうけどこちとら必死なんだよ、!にィにが話しかけてきてんだよ!
俺の声に気づいたにィには、はあ、と扉越しでも聞こえるくらい溜息を吐き出した。これ絶対わざとだな。ごめんねにィに、次からはすぐ返事するから。
「アンタ、これから時間ある?」
「え、あるにはあるけれど…おつかい?」
「バカ、違うわよ。デートのお誘いに来たのよ、で、え、と」
で、え、と。だって、絶対そのにィに可愛かったはずなのに!ああくそ悔しい、瑠璃がいたらその顔を見れたというのに、悔しいなくそ!
心中でじったんばったん暴れながらも頭はフル回転させる。デート、デート、でーと…。勿論そういう意味でなくただのお出かけなんだろうけど、何故に今?もう夕方は落ちて夜が目を覚ましたところなのに。そしていまの時期になにかイベントがある訳でもないだろう、まだ7月も最初なのだ。俺も何か面白いものがないかと調べたけれど、終わり頃にならないとイベントもなかったはず。
「デートって…にィに、どこ行くつもりなの?」
いくら考えたってにィにの真意は分からなくて、少し扉に近付いてそう問いかけた。そもそもにィにから話しかけるなんて事自体珍しいのに、お出かけなんて。勿論嬉しいけど何でなんだろうって気になっちゃって。
手持ち無沙汰に「わたし」の髪を梳いた。それは本物の髪と違って少しつっかかる。これ、エナやローテに触らせたら卒倒しそうだな。なんて美容命な人物を思い浮かべては苦笑に似た笑みが溢れた。と、俺が違う方向に意識を滑らせてるうちににィには返事を考えていてくれたようで、少しして聞こえた呼吸音に耳を澄ませる。
「星を見に行くのよ。こんな夜にする事と言ったらそれくらいに決まってんでしょ、」
何当たり前のことを、と言わんばかりの声色でにィにはそう告げた。……星、星ってあの空に寝転んでる星の事だよね、?にィにが星好きなんて初めて聞いたんだけど。
いつの間にか増えていた俺の知らないにィに情報にがつんと殴られたようにショックが降りかかる。にィにの全部を知ってないとヤダ、ってことは無いけれど、やっぱりいままで一緒に居たのに知らないことがあると寂しいもので。うう…と静かに寂しさを堪えている内に何かまた思い出していたのか、そうそう、とにィにはまた言葉を紡ぐ。
「今日はベガって星がはっきり見えるらしいからそれ見たかっただけなのよ。…まあ、アンタが乗り気じゃないなら他の人を誘うわ」
ベガ、と聞いて負のスパイラルがぴたりと止んだ。ベガ…そういえば最近聞いた覚えがあるような気がする。なんだったっけ、あれは……そうだ、レイが話していたんだった。七月の星はどうたらこうたら、それでクロエとあられが真剣に話を聞いてたんだっけ。何となく思い出してきた。それで…ええと、ベガは……「おりひめ」の星、と呼ばれているんだっけか。ただの偶然かもしれないけど、おりひめを選んだにィにはやっぱりかわいいひとだなあ、なんて、ふふ、と口角が上がる。
…なんてあまい気持ちは一瞬の事、次に続いたワントーン下がった声に、は、と顔を上げる。俺がショックに打ちひしがれている沈黙を否定と取ったのだろう、俺にとっては更に追い打ちをかけるような言葉にぐんと心臓が重くなる。にィには優しいからそう言ってくれたんだろうけど、俺がにィにとお出かけしたくない訳がない。寧ろ今すぐ行きたいし、誘って良かったのなら毎日でも誘うくらい嬉しいし!……それなのに、にィにがせっかく俺のところに来てくれたのに、他の人を誘う、なんて。焦燥に駆られるまま、扉に縋るように立ち上がる。そのまま焦りを隠すこともなく、俺は声を上げた。
「、行く!行きたい!にィにが見たいもの、わたしも一緒に見たい…!」
我ながら子供が駄々をこねるように叫んでしまって、少し恥ずかしくなった。ずるりと頭からずり落ちたウィッグを腕の中に閉じ込めれば、それで隠すように顔を埋めた。
にィには大人っぽくて綺麗なお姉さんって感じなのに、俺だけまだがきんちょのまんま。年齢もあるかもしれないけど、にィにが俺の歳のときはもっと大人びてた気がする。俺ももっと大人っぽくなりたいのに、いざ何かあれば子供みたいに振舞ってしまう。悔しいような、悲しいような、はたまたにィにへの憧れが強まったような。
そんな俺のころころ変わる感情を笑うかのようにタイミング良く、くす、と微笑んだような聞こえた。その言葉を聞いた途端、俺はがたん!と慌ただしく立ち上がる。
「…そう、じゃあ五分だけ待ってあげるから早く準備なさい」
ペンか小物入れが落ちたか分からないけれど、今はそんなことどうだっていい。読者も最初に読んだ通り、2000字くらいはあるあの作業をもう一回しなくてはならないのだ。しかも洗顔してスキンケアして、あと着替えも。それを五分で終わらせなきゃいけないのだ、にィにが言ったんだから五分ぴったりに!…絶対に終わるわけがない。確実に無理。
もう、にィにはこういうところあるんだから!
──そして、何分経ったかは分からないけれど、とにかく慌てて「わたし」は扉を閉めた。パタンでもガチャンでもなくバンでもなく、ガタタッ!と。効果音から分かる通り、わたしは急いでいた。…だって、大好きなにィにが待ってるんだもの!
「もう、女のコは準備が大変なんだから!」