Silver spoon wars
ふしぎなお茶会、きらめく銀の匙

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「もう、いらないッ!」
 女は高いマンションのバルコニーから思いっきり指輪を投げた。指輪は一度弱々しくきら、と光ると、すぐに夜の闇に埋もれて見えなくなった。
 指輪は本日破局した彼氏が女の誕生日にずっと前プレゼントしたものだ。「『きみをずっと大切にする』なんて言ったくせに、あの女たらし!」と思いっきりに叫ぶと、女はぴしゃりと掃き出し窓を勢いよく閉めて自分のベッドにばふんとダイブする。
 そう女がむしゃくしゃと湧き立つ怒りと葛藤していたとき、ところ変わって野球場では、少年野球団が夜遅くまでの練習を丁度終えたところであった。野球団の少年らのうちのひとりがトンボ掛けをしていると、グラウンドの隅にきらりと光る何かを見つけた。
「なんだこれ?」と拾い上げたのは、それはそれは美しい指輪であった。まさしく、先ほどの女が投げた指輪である。太めの銀色の輪っかに、花の彫刻がなされ、ルビーかガーネットと思しき小さな赤い宝石も乗っている。
「おい、アキラ、ちゃんとトンボ掛けしろよお」
 同級生に呼び止められ、少年はハッと顔を上げる。「うん、わかった」とできるだけ平常心を装いながら返事をすると、アキラと呼ばれた少年は指輪をそっとズボンのポケットにしまった。
 アキラは仲間と話しながら家に帰ると、汚れたユニフォームを洗濯機前の洗濯カゴに出した。と、ぐうと腹が鳴る。少年の腹だ。猛烈な空腹に少年はすぐさま「お腹すいたー」と言いながら母のいるダイニングへと走った。空腹のために少年は忘れ去られた指輪はユニフォームのポケットに放置されたまま一夜を過ごすことになる。
 朝、アキラが目覚めると、昨日の野球の練習で指輪を拾ったことを思い出した。いつもはぼんやり、ゆっくりと起きる少年であったが、今日はハッと飛び上がって洗濯機の方へ駆ける。
 洗濯機の置いてある脱衣所は電気がついていなかったが、そんなのは気に構わず少年は洗濯カゴへ飛びついた。横ではぐわんぐわんと洗濯機が稼働している。もうユニフォームは洗濯されてしまったかもしれない――というのが頭を過ぎったが、幸いにもユニフォームはまだ洗濯されないまま第2回目の洗濯に回されるようで、複数の洗濯物と共にカゴの中にあった。ほっとしたのと嬉しいのとで、少年の身体はカッと熱くなった。はやる気持ちを抑えつつ、できるだけ物音を立てずにカゴの中をまさぐり、ユニフォームのズボンを取り出す。まず左ポケットを探ったが、なかった。右ポケットもさぐったが、なぜかない。なんで、とも一度左ポケットを探ると、今度こそ指先に冷たい金属がかつりと当たった。
 横で稼働していた洗濯機の物音は次第に小さくなり、すうぅ、と一旦静かになったかと思うと、「ピロリー」などいう電子音が響く。洗濯終了のアラームだ。
 向こうから、母のスリッパがたてるパタパタという音が近づいてくる。少年は慌てて指輪を自分のパジャマのポケットに突っ込んだ。が、うっかり手を滑らせて指輪を落としてしまった。すぐにしゃがんで拾ったものの、もう母は脱衣所の扉から顔を覗かせていた。
「アキラ、どうしたの」
 どきんと胸が鳴る。
「なん……なんでもない」
 そっと手の中の指輪をポケットに滑り込ませながら、彼は立ち上がろうとした。しかし、母は眉をひそめる。
「何こそこそしてるの?」
 え、と思った。思わず少しよろけてしまう。
「ううん、何も」
 ぎゅっと左手を握る。ますます母は不審げに目を細めた。
「アキラ、嘘ついてるでしょ?」
 ついてないってば、と少年は弁解するも、母の鋭い瞳に睨まれては喉がうっと詰まる。
「さっき何かポケットに入れたでしょう。それ、出しなさい」
 母の口調こそ優しかったが、声音も顔もきつかった。少年は渋々とポケットの中の指輪を差し出した。母はそれを見ると、ぱっと目を見開いて、
「何これ、アキラが拾ったの?」
と言いながらしげしげと指輪を見つめている。少年はこくりと頷いて頭を垂れた。「昨日、野球の時にグラウンドに落ちてて、あんまり綺麗だから拾っちゃったんだ」
「だめじゃない、勝手に拾っちゃあ……誰かの落とし物かもしれないでしょう?今後は拾っては駄目。さ、わかったら早く朝ご飯食べなさい」
 はあ、ともふう、ともつかない息を少年は吐いた。きっと、これで良かったのだ。あの指輪を持っていたって、いつか誰かのものを勝手に拾った後ろめたさにやられちゃうから。そう言い聞かせると、少年は朝食を食べに食卓へと向かった。
 母は洗濯機から洗濯済みの洗濯物を移し、第二陣の洗濯物を洗濯機に入れる。洗剤をいれ、洗濯機のスイッチを押す。濡れている洗濯物を入れた籠を持って、ベランダに出て洗濯物を干す。息子を学校へ見送る。自分もトーストした食パンを食べ、使用済みの食器を洗って片付ける。少し一息ついてから、掃除機をかける。床をクイックルワイパーで拭く。風呂掃除とトイレ掃除をする。そして、今日の夕飯は何にしようかと考えながらクッキーをひとつ、つまむ。
 そこで母は、今朝の出来事を思い出した。あの美しい指輪のことだ。今、自分のポケットに入っている。取り出してコーヒーを飲みながらゆっくりとその指輪を眺めた。太めの銀色の輪っかに、花の彫刻がなされ、ルビーかガーネットと思しき小さな赤い宝石も乗っている。売ったら何円するのだろう、という思いが頭を過ぎる。そういえば、スーパーの近くに鑑定屋があった。前に着物を持ち込んだことがあるが、割と良い値段で買ってくれたのを覚えている。
「……別に、鑑定してもらうだけならね」
 そう呟くと、母はアイスコーヒーを飲み干した。
 食材を買いに、母はスーパーへと出かけた。スーパーへ行く前に、すぐ隣のビルの鑑定屋へと立ち寄った。勿論、あの指輪を鑑定してもらうため。鑑定はしてもらうが決して売る前提で鑑定してもらいに行くのではない、と、母は自分を正当化させるように心の内で言い聞かせながら鑑定屋のドアを開けた。
 指輪を鑑定に出し、数分待っていた。名前を呼ばれ、ぱちぱちと電卓を打っている鑑定士と机を挟んで向かい合う。
「鑑定結果、買取値段はこちらになりますね」
 そう言いながら鑑定士は電卓を母に向けて差し出した。母はその画面を見ると、思わずハッと呼吸が止まった。まさか、こんな値段がつくなんて……。
「結構良い値段、つきますね」
「こちらの指輪に埋め込まれているガーネットですが、小粒ながら純度の高いものでしたので」
 「なるほど、」と母はやや上の空で相槌を打つ。そのまま、「じゃあ、買い取りお願いします」と返してしまっていた。
 数分後、彼女は出かける前より膨れた財布を持って鑑定屋からスーパーへと向かった。財布が小銭以外のもので膨れる経験など、彼女は初めてだった。
「売っちゃった……」
 ウィーンと開いたスーパーの自動ドアの音に、その言葉はかき消された。
 数日後、あの指輪を闇夜に投げた女は、その投げたはずの指輪をもう一度その目で見ることになった。駅前の洒落たカフェで待ち合わせた、久しぶりに会った女友達の指に嵌っていた。
 女は先にカフェに来て、スマートフォンをいじりつつ窓の外を見、友達が来る時を待っていた。失恋した過去はもう忘れ、大分落ち着きを取り戻しているようである。
 数分後、友達が姿を現して、「久しぶりー」と手を振って女の座っていたテーブルへ歩み寄ってきた。手を振り返しながら、相手の人差し指にきらりと光る何かを見つけた。きっと指輪だろうと思った。友達は女の向かいの席に座っては、少し苦笑いとも微笑みともつかないような笑みを零した。
「ごめんね、待った?」
「ううん、大丈夫」
 そう返事しながら、女は相手の指になんとなく目をやった。女は目を見開いた。相手の指に嵌っている指輪を、思わず震える指でさす。
「その指輪……」
「あ!これ、昨日買ったんだ、かわいいでしょ」
 ふふふ、と無邪気に相手は笑う。ぴく、と女は顔を強張らせる。
「それ……どこで?」
「ネットで、買い取り専門店?みたいなとこが出してたの」
 ふうん、と返答するのが女には精一杯だった。その指輪はもう一切見たくなかった。見たくなかったから捨てたのに、なぜここに。拾われて売られたのだろうか。いや、そんなことはどうでもよかった。女はあの元彼を連想してしまうのが、一瞬でも思考のうちに入り込んでくるというのが嫌で仕方ない。加えて、あの屑男の触ったものを大切な友人が触っているなんてことが成立してしまうこの世の仕組みが断じて許せない。ざわざわ、もやもや、と胸を今すぐ掻き切ってしまいたくなるようなおかしさが胸の内に一瞬にして広がる。
 なんとか落ち着こうとして、大きく息を吸う。吐いた息に乗り、言葉がするすると溢れた。
「それはね、不幸の指輪なの」
 女の友達はその言葉に「へ?」ときょとんと首を傾げた。「どうしたの?」
「わたし、見える。○○ちゃんが不幸になる未来。だから、ねえ、お願い、そんな指輪すぐに売り払って」
 「大丈夫?」と相手は女の顔を覗き込んだ。女は顔を青くしてうな垂れ、わなわなと震えている。
「確かにその指輪は綺麗だけど、わたしは○○ちゃんには不幸になってほしくないの。その指輪はダメな指輪なの。わたしの別れた屑男が触ったの。ねえ、お願い、お願いだから、」
 女は顔を上げて、相手をまっすぐに見た。友人はその女の目の揺らぎを見た。最近忙しく直接は会えていなかったが、一応小学校からの付き合いの親友で、会えなくてもメッセージのやりとりはしていた。女が精神的に病んでいるような様子は友人は感じていなかった。何よりその友達は「カツを食べたら勝つなんてばかみたい、カロリーメイト食べないと、カロリーメイト」と大学受験を控えた女が言っていたのを鮮明に覚えており、日ごろから迷信や噂の類を根っから跳ね除ける人物であったと記憶している。そんな彼女が「不幸になる」と言っているのだから、友達は「よっぽど親友はこの指輪が嫌いなのだろう」と思った。
「わかった、外すね、売っちゃうから、安心して」
 友人は女の肩を撫でた。女が激しく嫌悪するような人だなんて、元彼は何をしでかしたのだろうか、と友達は考えた。
 翌朝、フリーマーケットアプリにてその指輪は出品されていた。3日後、それはインドカレー屋を営むインド人店主によって買い取られる。1ヵ月後、消防署に「妻の指から指輪が抜けない」とインド人から通報が入る。インド人の妻は指輪が抜けた瞬間、「もういらないわ」と言ったという。
 
   ○
 
 ポケットから出したスマートフォンを片手に、僕は何気なくリビングの掃き出し窓から外へ出た。もう初秋も終わりで、夜の向こうから吹いてくる風は既に少し肌寒い。そのそよ風が僕の髪をふわりと浮かせたかと思うと、何かが燻られたような独特な香りが鼻を掠める。匂いのした方をちらりと見ると、やはりそこに先客がいた。
「お、リクじゃん」
 煙羅は僕に気づくと軽く片手を上げた。ロリィタファッションに似合わぬ低めの声である。今日も彼は煙管を吸う姿がサマになっているような気がする。彼の左手はその煙管を持つため身体についてきたかのように、柔らかに、しかししっかりと片手で細く長い煙管を支えていた。その煙管と口元から揺れつつ漏れる煙は秋の夜にぼんやりと靄をかける。
 と、突然、煙羅の指がきらりと光る。その光ったものが何かと気づくと、僕は危うく生命線とも言えるスマートフォンを落としそうになった。
「……その指輪、」
 煙管を持つ煙羅の指に、あの指輪ははまっていた。煙羅の燻らせた煙を介してもよくきらきらと月明かりに光って見える、ルビーの指輪。僕が思わずそれを指さすと、ん、と彼は自分の指輪をちら、と見やった。「ああ、これ?」と彼が煙管から口を離してくぐもった声を出すと、もわもわと煙が僕と煙羅の間に壁を作った。それを右手で払いのけながら、
「これ、今日市場で見つけたんだけどさ、どう?」
と彼はにやりと笑って指輪を外す。スマートフォンをしまってから僕が手のひらを差し出すと、彼は指輪をそこに乗せてくれた。
 花の彫刻が施された一般的な指輪より少し太い銀色の輪に埋もれるように、ルビーが小さいながらもちょこんと載っている。間違いなく、いつかに僕が女の子にプレゼントした指輪であった。その女の子とは大分前に破局している。それがなぜ、彼の手に渡ったのだろうか。僕が思わず顔をあげたと同時、煙羅はふうと煙を吐いて開口した。
「その指輪、色んなとこ渡り歩いてきたみたいでさ、幸せを呼ぶだの不幸を呼ぶだの、ロシア女帝の使ってたものだの、変な噂ついてるらしいぜ。まあそんなことないと思うけど、気に入ったから買っちゃった」
 に、と彼は口元を綻ばせる。「懐が寒いや、」なんてけらけら笑いながらまた煙草をぷかぷかふかしている。
 手元の指輪のルビーは、僕があの子にあげたときより幾分か暗くなっているような気がした。きっと、夜が暗いせいだし、気のせいだろうけど。
 あんまりじっと僕は指輪を見つめていたらしく、しばらくすると煙羅は「欲しいの?」と、目を細めて言ってきたから、僕は指輪を右手にはめて、少し月にかざしてみた。逆光で指輪の彫刻はよく見えなくなった。すっと、手を下ろした。
「ううん、いらない」
 そう言うと僕は指輪を外して煙羅に返した。じゃ、と僕は館の中へ戻った。ゆっくりと窓を閉めながらスマートフォンを取り出す。ロック画面をちらりと見ると、LINEからの通知は来ていなかった。僕はまたすぐに、スマートフォンをポケットにしまった。
 


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