こわくない


 こわい夢を見た。
 親しい友人だと思っていた人が、泣きじゃくりながらあたくしの首をナイフで刺して、あたくしを殺した。
 そのことに気づいたのは朝の食堂で彼と顔を合わせたときだった。おはようと挨拶したとき、あたくしは今日彼を見たのがこれで一回目でないと思い出した。なぜ?と食堂の椅子を引いた。ガガっと床に脚が引っかかってしまって、うるさい、と自分は嫌な感じに肺をすぼめた。そうやって息を吸った時に、あたくしの脳内にぱっと光の如く走ったのは夢の断片。あたくしはそれを思い出してとてもこわくなった。あたくしは椅子を半分ほど引いたまま立ち尽くした。「大丈夫?」と隣の誰かが言った。誰かは覚えていない。声色的に女の子だったような気がする。「大丈夫よ」あたくしは小さく呟いた。誰のためでもなく自分のために。
 その日の朝食はほとんど味がしなかった。シリアルもヨーグルトも何の味もしない。餌のように見えた。家畜は食事をするときにどんな気持ちで食べているのかしら。それとも彼らは考えることさえ放棄しているのかしら。
 でも、そんな朝ごはんだったのに、目玉焼きの味だけはしっかりとした。あたくしはそれがこわかった。なぜたまごの味だけ?半熟のどろりとした黄身の味はずっと口蓋に張り付いた。
 あたくしは食べ終わった皿を見つめた。パンで拭いきれなかった半熟の黄身が少し残っている。食べ終わった食器は自分で流しのところまで返さなければいけない。けれど、立ち上がる気にはなれなかった。ぼうと窓の外を見た。見たけれど、外は明るかったか、暗かったか、天気がどうだったか、そういう目が認識した情報は脳に留まることは1秒たりともなく、ただ右から左へと流れていく。何も考えない。何も考えないということさえも考えない。ふと、あたくしは今無の境地というものを垣間見ているのではないのかしらと思った。そう思った途端、空の白い雲の隙間から白々しく明るく日が昇っているのが窓の外に見えて、同時になぜ何も考えていなかったかも思い出した。とてもこわくて、あたくしは首を振った。勿論、横に。
 とうとうあたくしは白い皿たちを持って席を立った。既にもうここにいるのはあたくしの他に3人ほどだった。
 静かな食堂を後にして、すぐ近くのキッチンの流しにわたしは皿を下げた。もう皿洗い当番は作業に取り掛かっていた。皿洗い当番は2人か3人かで行うことになっている。(朝食をとらない人もいるが)約60人分の皿を洗うのを2,3人で洗うというのは大分大変なのだけれど、流しのスペース的にそう多くも人手を割けられないのも事実。皿洗い当番は結構面倒くさがられている当番の部類だと思う。その3人のうちのひとりが、まごうことなく、彼であった。
「エリークン、皿はこちらに置いてくれないか」
 ひっとあたくしは息を飲んだ。その声を聞くのは今日は二回目ではなくてたしかに三回目だった。いつもならええ、と返事をするけれど、あたくしは足が竦んで動けなくなって、息を飲んだきり声も出ない。
「どうしたんだい」
 彼は不思議そうに空色の瞳をこちらに向けて、ほら、お皿、と手を差し出した。当たり前だけど、彼の目には涙なんか浮かんでいない。胸がぎりぎり、前方向から圧力を受けているみたいに苦しい。手入れをよくしてある白く細い彼の手指は水にやや濡れている。こんなに綺麗な友人の手をあたくしは夢の中で汚したの?所詮夢よと笑い飛ばせるような自分はとうの昔、生まれたときから自分の中から締め出しているのでどこにもいない。
 あたしは圧倒的息苦しさの中、搾り出すようにか細く「ええ」と言うとその手にお皿を手渡した。
「具合でも悪いのかい?」
 彼が首を傾げるとさらさと赤い髪が揺れる。先ほど声が出なかったのが嘘みたいにあたくしのお得意の二枚舌はするするとよく動いた。
「なんでもないわ、少しばかり寝すぎただけでしてよ」
「そうか、なら良かったね!」
 ぱっと彼は華やかな笑顔を見せて、じゃあ、と作業に戻った。失礼しますわ、とあたくしも厨房を出た。
 いつのまにか動きの素早い黒い雲が空にこびり付いているせいで、朝なのに廊下はいつもより幾分も暗かった。あたくしはこわくなって、キッチンのドアから逃げるように走った。
 あたくしは気づくと林の中で驟雨に打たれていた。きっと館の裏の林には違いないのだけれど、木々の向こうに館は見えなかった。今頃館でまたあたくしが家出したみたいになってるかしら。ええ、「また」。いつものことね。
 夢の中でも現実でも誰かの手を煩わせて何が楽しいのかしら。
 どうせなら夢の中じゃないところで殺されればよかったのに。
 そう、ざざあと大雨は林の木々の木の葉を余すところなく揺らしていた。その騒音はこわくなくて、あたしはぎゅっと自分の両肘を抱えた。

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