Silver spoon wars
ふしぎなお茶会、きらめく銀の匙
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谷川俊太郎「あたしとあなた」より
学パロです〜あとキャラ崩壊キツ!
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バスのドアが開いて、わたくしは手元の詩集から顔を上げた。まだ降りるバス停ではない。だけれど、こうしてバスが止まってドアが開いたに、なんとなく乗ってくる人を見てしまう癖がある。といっても、朝のバスに乗りあわせるのは大抵同じ顔ぶればかりだ。しかし今日は例外だった。雨だったから、普段バスを使わない人間もバスを使っていたというのもあるし、そもそもわたくし自身がバスの遅延を恐れて乗るバスをいつもより数本早めたという理由もあるかもしれない。でもそんなことは関係なかった。彼女が、いた。ミルクティー色のツインテールに、黒いハイソックス。見間違う筈もない。たしかに彼女だった。
彼女のことは、時折登校中のバスの車窓から見かけることがあった。彼女は自転通学なようで、このバスの少し前を走っていて、10秒もしないうちに追い越されるところを見かけたところが始まりだった。もちろん、バスの車窓から自転車や徒歩で通学するうちの学校の生徒を見かけることは沢山あるから、取り立てて彼女が特別なわけではない。それでも、なんとなく目で追うことが習慣になっていた。
そんな彼女が今日はわたくしと同じバスに乗ってきた。一体、どうして。と少し考えて、すぐに結論は出た。今日はどしゃ降りの雨だった。その上に強風。こんな天気じゃ自転車を漕ぐのは難しいに決まっている。
座席がほぼ埋まっているくらいのあまり混雑していない車内を見渡すと、彼女は出口付近の支柱に寄っかかるように立った。しばらくするとポケットから鏡を取り出して前髪を直している。ちなみにわたくしは出口の反対側の列の後方の席の前から2番目に座っている。だから彼女のことは席からでもよく見えた。ほぼ毎日見ていたけれど、こんな至近距離でその姿を見たことは今までになかった。
まず、彼女の瞳は澄んだ緑色をしていた。鼻や手脚の所々には絆創膏が貼ってある。身長はそんなに高くない。今日はバス通学だからか、焦げ茶色のローファーを履いている。それから___
そうしているうちに、自分が自分の思っているより熱烈な視線を彼女に向けていたことに気がついて、わたくし慌てて『あたしとあなた』の詩集に向き直った。向き直ったけれどあまり身が入らない。そこに描かれていることばを頭で理解することはできても、咀嚼して味わうことはできないのだ。仕方がないので詩集を閉じようとしたときに、お気に入りの栞をなくしていたことを思い出した。仕方がないので通学鞄の中の筆箱から付箋を取り出して読みかけのページに貼り付けた。それと同時に放課後になったら生徒会室の落し物箱を確認しに行くこと、と頭の中にメモをする。バスは次のバス停に止まっていた。
「あ、」
あたしは自販機のおつり出口の中に10円玉が2枚、入ったままになってるのを見つけた。別にめちゃめちゃお金に困ってるとかそういうわけじゃないけど、なんとなく、自販機で飲み物を買うときはここを確認する癖がある。いつもは水筒持ってきてるから、わざわざ自販機で買うなんてことしないんだけどね、お金だってかかるし。それに買うときは絶対水。前まではミルクティーとか買ってたんだけど、インスタに細い子は水しか飲まないって書いてあったから。あたし出てきたペットボトルを二口飲んで、リュックに入れた。その時に、傘からリュックがはみ出して、すこし雨水に濡れた。
あたしはまるで初めて学校に行く人みたいにあたりをきょろきょろ見回す。最寄りのバス停が学校と反対方向にあって面倒だから、いつもは自転車で通学してるんだけど、今日は大雨なうえに風も強いからバスで行くことにした。梅雨と台風の時期はわりとそういう日も多いんだけど、今年に入ってからは今日が初めて。だから、なんだか変な感じがする。あ、ちなみにさっき見つけた10円玉はそのまま自販機の中に置いておいた。いくら忘れられたものとはいえ、人のお金を取るなんてなんだか気がひける。かといってたった数十円だからわざわざ警察に届けるのもなんだか違うし。
ようやくバス停が見えてきたあたりで、前から強めの風が吹いてきた。あたしはお気に入りのピンクの傘で風を受け流しながら、あー、せっかくセットした前髪がぼさぼさになっちゃうな、と考える。雨の時期はただでさえ湿気で髪の毛が広がって嫌なのに、風邪なんて吹いたらもう最悪。髪の毛って、女の子の命なのに。命を奪われる通学路なんてある?マジでありえない。最低。
バス停に着いたあたしは、傘をたたむと、リュックから定期入れとタオルを取り出した。タオルで制服の肩だとかリュックだとか、そういう雨水に濡れたところをぽんぽん叩く。多分またバス停から学校までの間に濡れてちゃうと思うけど、それでもバスの中にいる間びしょびしょのままでいるのは気持ち悪いもんね。
ポケット中でスマホのバイブレーションが鳴ったから取り出すと、湿気で画面がつるつるに濡れていた。タオルの湿っていない部分で液晶を拭くと、来ていた通知はどうでもいい公式ラインだった。ほら、あるあるじゃない?無料スタンプもらうために公式ラインを追加して、ブロックするのもなんかめんどくさくてそのまま通知が来ちゃう、みたいな。この際だからブロックしておこう___と思ったところでバスが来たからあたしは飛び乗った。スマホは、バスの中で見ればいっか。
『あ』
きゅ、と窓ガラスと指が擦れる音が鳴った。窓際の一番後ろの席、ぼうっと窓を見つめながらわたくしは授業の内容を右から左に軽く聞き流す。見つめているのは“窓の外”ではなく“窓”。6月の湿気で結露した教室の窓からは、その外の世界など見えていないのだ。わたくしは指で結露した窓になにかを書こうとして、だけれど特に思いつくこともなかったから、『あ』とだけ書いてやめた。文房具店の試し書きコーナーを思い出した。どうして日本人は書くことが思いつかない時に『あ』や『あいうえお』という言葉を残すんだろうか。わたくしの場合、別にとりたてて『あ』というひらがなが好きなわけではなく、ただ単に『あ』がたまたま五十音の最初にあったというだけのことで、これが例えば『さ』であったり『な』であったりしたら、きっと今窓に書かれているひらがなは『あ』ではなかった、ような、気がする。
わたくしは指で書いた『あ』のその先を見つめる。『あ』の形に水滴が拭われて、外の世界が見えた。だけれどそれは3校時目の授業と同じくらいつまらないような雨の世界だった。教室の窓から見える景色というのは大抵つまらないものだ。だけれど朝、バスの車窓から見える景色は違う。あの子がいるからだ。名前も学年も知らないけれど。「窓の中」と「窓の外」はけして混ざり合うことはないはずだったのに、今日初めて彼女とわたくしが同じ世界にいることを知った。
それだけで今までよりも全然素晴らしいことな筈なのに、やはり人間というのは欲が出てくる生き物で、わたくしの中にはまだ足りない、彼女のことをさらに知りたいという気持ちが燻っていた。まだ梅雨は始まったばかりだから、この先何回かは彼女とわたくしが同じバスに乗ることもあるだろう、と少し期待した。あったとしたって、きっとなにもできないだろうけど。
「あ!」
あたしは思わず声を上げた。今すぐあたし以外の誰かにも見てもらいたいと思った。
今はお昼休み、あたしは一人でお弁当を広げて教室の窓際に座っている。あ、別に一緒に食べる友達がいないとかそういうんじゃなくて、ただ、いつも一緒にお弁当食べてるグループの中でお弁当持参なのがあたしだけだから、こうしてあたしは一人でみんながランチを調達してくるのを待ってるんだ。一緒についていくのもいいけど、やっぱり一人の時間って大事じゃん?まあこういう時間に他の子と喋ったりすることもあるんだけど。
それで、あたしがどうして声を上げたのかっていうと、教室の窓から見える空に虹がかかっていたから。そんなこと?って思う人もいるかもしれないけど、あたし、虹ってあんまり見たことなかったから結構嬉しい。朝はあんなに振りまくってた昼になったら雨も急に晴れたし、この感じだったら帰りは傘をささないで済みそうだな。
あたしはポケットからスマホを撮り出してシャッターを切ろうとした。そしたらまた今朝の公式ラインからの通知がなった。あれ、このアカウントブロックしなかったっけ。そっか、バスの中では前髪直すのに夢中でブロックするの忘れてたんだ。まあいっか、と思って虹にカメラを向けたんだけど、これがあんまり綺麗に映らない。花火とか月とかと一緒で、目に見えたよりもショボい感じでしか映らないの。実際見たらこんなに綺麗なのに。
試行錯誤のうちにようやく一枚いい感じの写真を撮って、それを素早く加工してインスタのストーリーに載せた。やっぱり彩度を上げるとそれなりに映る。それでも現実で見たほうがやっぱり綺麗だけど。そのあと忘れずに公式ラインもブロック、トークルームを削除。これでもうラインが来ない。プチストレスから解放されてハッピーだけど、公式ラインとはいえブロックするのはなんだかちょっと罪悪感があるような気もした。
『 あたしとあなた 』
「 失礼しました 」
軽くお辞儀をして、生徒会室のドアを閉じた。手のひらには短くなった色鉛筆が握られている。
放課後、頭にメモした通りわたくしは落し物箱を見に生徒会室にやってきた。結論からと言うと、どれだけ探しても落し物箱の中にわたくしの栞はなかった。落として誰にも見つからなかったのか、見つかったけれどここに届けられなかったのか、それとも学校ではないどこかで失くしたのだろうか。わからないけれど、とにかくここには届いていなかった。諦めて戻ろうとした時、生徒会室の隅の方に別の落し物箱が追いやられているのを見つけた。ダンボールにはマーカーでその年数が書かれているが、その箱に書かれている年数は今より10年近く前のものであった。なんとなく気になって開けてみると、その中身は文房具やキーホルダー、小さなマスコットなどごく平凡なものだった。今も学生も10年前の学生も、落とすものはそこまで変わらなかったということだろう。
意味もなくがさごそと落し物箱を漁っていると、その中から懐かしいものを見つけた。虹色の色鉛筆だった。芯は丸くなっていて、軸は白く、そしてかなり短くなっている。懐かしい、と思わず声に出すところだった。よくお祭りの景品などで見たことがあったような気がする。芯のの削れ方や傾ける方向によって出てくる色が違って、面白かったと同時に、傾けてもうまく狙った色が出なくて難しいかったような記憶がある。
わたくしは気付くとその色鉛筆を手に握りしめたままダンボールを閉じていた。他人の落し物をとるのは確かに良くないが、届けられてから10年も経っているとなると勿論これの持ち主はとっくに卒業しているだろうし、この色鉛筆を取り戻しに人がやってくることなどないだろうと思った。けして現れることがない持ち主を落し物箱の中で永遠待ち続けるのはきっと持ち物たちにとっても悲しいだろう___最後らへんは、わたくしがこの色鉛筆を持ち去ることを正当化する言い訳でしかないけれど。
生徒会室から出たわたくしは、改めてその色鉛筆を見つめた。そういえば子供のときは虹色が好きだった。こういう虹色の色鉛筆もそうだし、なんとなく色のヒエラルキーの中で虹色が頂点にあるような気がしていた。だから、この色鉛筆を見つめているど童心に帰ったような気持ちになる。
ふとわたくしは今朝読んでいた詩集の一番最初にある、『あたしとあなた』のフレーズを思い浮かべた。何年か前からあの詩集が好きで、もう何回も読んでいる。中でも一番最初にある、『あたしとあなた』の詩が一番好きだ。
『 どうして 傘を さして いるの 雨も 降って いない のに あなた? 』
この色鉛筆があれば、何処へでも行けるような気がした。例えば雲のトランポリンだとか、虹の滑り台だとか、そういう子供達の頭の中にだけあるような、そういうところに。
『 そこ から 始まる から いえ 始める から あたし 』
わたくしは下駄箱へ続く階段を駆け下りた。弾むように、あるいはスキップをするように。
『 脈絡も なく 例えば 頭韻 あたしの あ から あなたの あ へ 』
熱い
足
明ける
朝
呆れる
家鴨
余る
蟻
焦る
赤
褪せる
青
味わう
穴
炙る
鮎
甘い
泡
遊ぶ
姉
飽きる
愛
あ
「「 雨…… 」」
ローファーに履き替えて外に出ると、雨がまた降り始めていた。朝とは違う、しとしととした優しい雨だった。思わず呟くと、わたくしの声に誰かの声が重なった。思わず声のする方を見ると、あの子がいた。あの子もわたくしの方を見ていて、思わず目が合った。えへへと彼女が笑ったからわたくしも笑った。彼女の声は、想像していたよりも少し高かった。
『世界は 言葉 から 始まって いるわ 今も それを 拒む ことが 出来る かしら 傘を さして いない あなた?』