夏の不幸


 電車のドアが開いた途端、クーラーで冷えた車内の空気の中に息の詰まる熱気がなだれ込んできた。うわ、と思いながらプラットホームに足を踏み出すと、瞬く間にわたしのまわりをやけに密度の高い空気が押し寄せる。足や腕を動かして改札へと向かうほど、プールの中で歩いているときのように、やけに空気か何かを書き分けている感覚がする。わたしは成程これを「うだる」ような暑さと言うのかと思った。いや、そんな冷静に「思った」わけじゃない。むわむわと湿気過多の熱気が、ああ、うだる!と叫びたくなるくらいに肺を押した。
 この暑さはわたしの故郷――日本の梅雨を彷彿とさせる。もし人間が皮膚呼吸もできたなら6月の日本には住めないだろう。ただでさえじとじとした空気なのに、ゆらゆらと地面から湧いてくるような熱気に汗がじわじわと染み出てくる。改札を抜けるとわたしはすぐに日傘を差した。日傘を差すとわずかに暑さがやわらいだが、それもほんのわずかで、未だ額に汗が浮く。
 それでもわたしは今日の天気がなんだか嬉しかった。ここのところ雨続きだったのもあるが、やはり晴れているとテンションがあがるのだ、若いので。
 そんな感じでやや御機嫌に帰路を辿っていると、いつもの商店街に差し掛かる。商店街を通り抜けて駅から館へ帰るのが、わたしのお気に入りのルート。ちょっと回り道だけれど、賑わいのある道を通るのは楽しい。お店に並んでいる品々を遠巻きに、歩く足取りも軽くなる。勿論お財布の紐はかたく!
 と、わたしは照明が暗めでアジアンテイストの、ちょっとあやしげな香りがしなくもない雑貨店の入り口に、売り物の風鈴がぶら下げられているのを見つけた。わたしは足を止める。「しあわせを呼ぶ風鈴」「在庫一掃のため30%OFF」のタグを腰につけながら、おっちらおっちらと微風に精一杯揺れていた。わたしはくすりと笑ってしまう。「しあわせを呼ぶ」なんて馬鹿らしいと思うと同時に、その揺れ方の不器用さに愛おしさみたいなのを感じてしまった。
 30%OFFの言葉にちょっと気が緩んだのもあって、魅せられた青い風鈴をそのままそこで買った。

 蒸し暑いのも忘れて、わたしはいそいそと館への帰路を辿りなおした。着くとすぐにわたしは換気のために夏でも窓の開いているキッチンの窓辺に「しあわせを呼ぶ」風鈴を吊るした。
 これでよし、とぱんっと手を打つと、いつの間にか背後の冷蔵庫あたりに悠陽くんが立っていた。
「どうしたんだそれ」
「『しあわせを呼ぶ』風鈴やで」
 わたしはにっと笑って言った。彼は眉を顰めつつ、冷蔵庫から出したばかりのコップに注いだ麦茶を静かに飲んだ。
「……嘘くさ、」
 合いの手を打つように、風鈴がチーンと鳴った。

 『しあわせを呼ぶ風鈴』というタグのついていた風鈴も伊達じゃなくて、風鈴を買って吊るした次の日はからっとした晴れだった。
「こんなんやったら洗濯物よう乾くなあ、」
 わたしは窓の外の天井のぱきっとしたスカイブルーを見つめて零した。
「……窓の外に、何かありましたか?」
 お茶会の水羊羹に静かに舌鼓を打っていた雛伊ちゃんが不思議そうにわたしを見つめた。
「ん、いや、しあわせやなあって」
 わたしも黒文字で水羊羹を一口に切って、おいしい〜、と飲み込んだ。ふふ、と雛伊ちゃんがあどけなく笑った。

 そんな気持ちのいいほどスカッとした晴れた日だったけれど、その翌日は暴風雨だった。災害の警報も出ているらしくて、館の中はいつにも増しててんやわんやだった。
 わたしは館の中を駆けて、館の中の全部の窓の戸締りがちゃんとしてあるか見て回った。2階の見回りは終わって、さて1階、とキッチンのドアをあけたとき、ぶおうとミストのように雨水が降りかかってきた。
 キッチンの窓が開けっ放しだった。外で吹き荒れている風が雨と共に吹き込んでいるのに、風鈴がチリンチリンチリンチリンと絶え間なくけたたましく鳴ってはいなかった。
 「しあわせを呼ぶ」風鈴は、強すぎる風に床に落ちて、風鈴のガラスにひびが入ったまま横たわっていた。わたしはなぜか、唇の右端だけを歪めてわらった。
 わたしは見回り第二陣のシャロさんに「おい」と肩を叩かれるまで、そこで雨風を受けて突っ立っていた。

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