Silver spoon wars
ふしぎなお茶会、きらめく銀の匙

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「ココさん、雨上がったらスペクトル見えますかねえ」
「…虹って言えよ」
「考えときます」
 それきりフールは黙った。おれはまだ何か言ってくるんじゃないかと思っていたので、身構えた肩をほうと下ろして歩を進める。こいつと話してもあまりいいことがないとおれは知っている。大体なんだか煽られる、し。
 おれは足元を見、雨の波紋が無限に湧いて出てくるような水たまりを避けながら細い歩道を進んだ。フールはおれの後ろを黙ってついてきた。スーパーから館への帰り道、首の辺りにまとわりついて離れない湿り気に混ざって沈黙が訪れる。沈黙は楽。何も言わないまま、傘をさしてエコバッグを手に提げて歩くだけで時間が過ぎてくれていた。沈黙より断然、雨の方がおれは嫌い。かと言って日差しが好きなわけでもない、けど。濡れるのが嫌なのだ。手を洗う水や風呂の水で濡れるのはいいけど、よくわからない成分を含んでいそうな雨水に、服でも髪でも肌でも毛穴でも体毛でもなんでもとにかく触れてほしくない。できることならこういう小雨の日に外出はしたくない。なのに!都が、たまたま館のそこら辺ににいたというだけで、おれとフールにおつかいを押し付けた。人使いの荒いヤツめ、と思い出してしまい、小さく舌打ちを漏らす。「雨だから嫌だッて言ったのに……」
「……なんか言いました?」
「――、いや……外出んの嫌だったなってだけ」
 おれは肩を竦めた。へえ、と背後から少し嘲るような声がした。
「じゃあおつかい、断ったら良かったのに――あ、もしかして、都さんが怖いから断れなかったんですか?へえ、ココさんって都さんのこと怖いんだあ」
 このとき、本当にフールに前を歩かせなくてよかったと思った。もし彼女が前を歩いていたら、こういうことを言うときにはわざわざ立ち止まって振り返ってにたりと笑みを浮かべるだろう。考えただけで猫の方の耳がさわさわする。
「おまえも嫌そうな顔してたくせに」
「あ、否定しないってことは怖いってこと認めるんですね」
「別に、誰かのことを怖いって思うがおれの自由なんだけど」
「そうですか、そうですか」
 たしなめるような言い方が鼻について、肩に寄りかからせていた傘の骨をとんとんとんと自分の肩に押し付けた。まったくよお、おれみてえなコドモっぽさを変にこじらせたヤツなんか、館に一人いるだけでもいっぱいいっぱいだってのに。そう考えたけど、おれがいつまでもコドモっぽくしてなきゃいい話だったので、吐いた溜息が余計に長くなった。足元の水たまりはどれもおれの辛気臭い顔を映している。くだらん、と声に出さず心の中でがしがしと大またで進むと、どの水たまりのココもくだらんと口を尖らせた。そこに映っている自分の眉と目と口が、馬鹿にしたようにこっちを向いている。ああもう!と傘をほっぽり出したくなった。が、手前でぐっと踏みとどまる。ぐらりと傘が大きくふらついた。
 そのふらついた一瞬、傘がおれの頭上に来なくなった。うわ、とおれ、喉のあたりを引きつらせる。濡れんじゃん、あほかよ、自業自得――と思ったが、空から雨は一滴も落ちてこなかった。ひょっとして……?おれは恐る恐る傘を閉じてみる。雨はいつのまにかやんでいた。足元の水たまりにも、もう波紋はできていなかった。
 なんで気づかなかった。おれは空を見上げる。黒く低い雲はもう東の方へと流されてしまい、日の光が覗いていた。その晴れ間の中、ぽつんと浮かぶ――、
「虹、」
 おれは思わず歩く足を止めた。すぐ後ろでわっという声がして、フールの傘の先がおれの頭にかつんと当たった。いて!
「ちょっと何急に立ち止まるんです」
「いや、『スペクトル』が」
 なんなんですかあ、と、とんとんとん、フールが軽い地団駄を踏んでいる音がしたが、おれは虹から目を離せなかった。いつ消えてしまうか、わからなくて。曖昧な輪郭、曖昧な色の分かれ目。ぼんやり、どこで色が赤から橙、橙から黄、黄から緑、緑から青、青から藍、藍から紫へと変わっているかははっきりしないのに、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫がそこにあることは確かで。どこからのびているのか、どこにたどりつくのかわからないから、思わず手を伸ばして、そこにずっと引き止めたくなるような。まさに幻。まさに、幻想。
「えっどこですか、どこ、」
 スペクトル、の語に反応したフールがばさばさと大きめの音をたてて傘を畳んだ。おれははっとして、虹の方を指さす。
「ほら、あっち」
「あっちってどっち――痛っ!」
 ひゃっと小さくフールが叫んだのでおれは思わず振り返る。フールが左手をひらひらさせながら眉間にしわを寄せていた。おれも思わず眉を下げる。「大丈夫かよ、」
「ちょっと指を傘に挟んだだけですよ、で、どちらに虹が」
 なんでもないというふうにそそくさと彼女は傘のバンドを止める。おれはああ、とさっき見ていた方向の空に目を凝らす。まだ虹はかろうじてさっきと同じ場所にあった。さっきより輪郭がぼやぼやしていて、いつ消えてもおかしくなさそう。
「そこ、あの、ちょっと遠めの山の」
「どれです」食い気味にフールが言う。
「あの、左から2つ目の」
「ああ、あの山……」
 だがそこで、ふわりと虹は姿を消した。依然、空には太陽の端っこが見えていたけれど、角度が変わったのか。なぜ虹が消えてしまうのかおれはよく知らないが、ともかく虹は消えた。あまりにも呆気ない。あ、という暇もない。
 心無しかはしゃいでいたように見えていたフールも、横ですっかり肩を落とす。
「ないじゃないですか」
「消えかかってたからなあ、仕方ないだろ」
 おれは肩を竦めた。虹はおしまいだな。おれは歩き出した。ちょっと、とフールも歩き出す。もう傘は差してないから、おれ達は横並びのようで横並びではない曖昧な距離を保って、また、水たまりを避けて歩く。
「……虹、本当にあったんです?」
「疑ってんの?」
「いやあ……こう、なんの跡形もないと、ねえ」
「なんだよそれ――絶対今度は見つけても教えてやんねえ」
「別にいいですよ?自分で見つけますし」
「どの山らへんかまで教えたのに、これほど感謝の念も何もないとは……少しは年上を敬えよ」
「今の時代は封建制度が通用するとお思いで?というか2歳差じゃないですかたったの」
「おまえなあ、おまえはおれより礼を知らなさすぎなんだよ」
「まさかココさんに礼を説かれる日がくるとは」
 おれはむっと片頬を歪めて振り返った。フールが目をぐるんと回して肩を竦めた。おれはくそうと髪をかく。ふっとフールが意地悪く目を細めた。おれはどはあと溜息を残してまた歩く。ああはいはい、虹があるって教えたおれがあほでしたよ。買い物バッグを肩に背負い直して、傘の先で邪魔な小石を飛ばした。
「別に虹くらいホースとかでいつでも作れんだろ」
「知ってますけど、それで作ったやつは見たくないですよ、あたしは空に架かってるのが見たいんです」
「そんなに虹見たいのかよ」
「ふん」
 これはさっきの都が怖い怖くない論争でのフールの言い分によると、否定しないということは認めるということになるらしい。が、おれは「認めるんですね」などとは言わない。そんなことしたらおれもフールと一緒である。おれはまた、ひとつ息をついて眉間を狭める。
「そんなに好きなのか」
「な、にが……」
 フールが変に上ずった声を出した。おれはそんな質問が返ってくるとは思わなくて、え?と首を捻りながら振り返る。「何って、虹」
 ああ、とフールは安心したように強張らせていた肩を緩めた。「まあ、幻想的なとこは好きですよ――端っこに何かありそう、で」
 ふうん、おれは前を向きなおした。理屈っぽいことと屁理屈がすきなヤツだと思ってたフールの口から「幻想的」というワードを聞くのはいささか意外というか、虹を幻想的と感じるということは、おれとあんまり変わんないところもあるんだなあというか。よくわからなかったフールが急に、おれと同じ、至って変わらない普通の十ウン歳に見えた。おれは肩の鞄をしっかりと抱えなおした。日光に当たってほんのりと温かい鞄を。
「やっぱり帰ったらホースで虹作ろうぜ」
「人工の虹はいりませんって」
 どはあと溜息をついたフールは、人の話聞いてました?なんて、ぶつくさ口を尖らせた。おれはそれがなんだかおかしく見えて、ふっと笑みを思わず、零した。

 ○

 あたしはちぇっと肩を竦めて庭に出た。都さんたら、あたし、雨の中でもおつかい行ったんだから、お駄賃ぐらいくれてもいいのに。
 あたしとココさんがおつかいの品を都さんに渡した後、ココさんはお駄賃をねだらずにそそくさとどこかへ消えた(あたし、やっぱりココさんは都さんのことが怖いんだと思う。あの逃げっぷり!)。ココさんが逃げてなかったらあたし、お駄賃もらえたかもしれない。だって、「フールちゃんにお駄賃あげたらココくんにもあげなあかんやろ?でももうココくんおらんしなあ、また今度やなあ」って都さんが!まあでも、あんな調子じゃあココさんがいてもくれないかな。まあまあ穏やかに食い下がったのに、結局だめだったから。
 小さく溜息をついて館の壁に沿って庭を進むと、ホースをとりつけてある蛇口にたどり着く。ここらへんはあまり手入れが入念じゃないのか、雑草が他の場所に比べて少し多い。先ほどの雨で濡れた草の端がちろちろと足首をなぞった。
 あたしはホースのノズルをミストにセットして持ち、水道の蛇口をきゅ!と捻った。さらさらさら、ノズルから細かな水滴が流れ出る。さっきの帰り道の、微妙な小雨みたい。ホースの前に手をかざすと、やんわりと濡れた。足元の草も、また濡れた。日光に水分がきらきらした。さっきまで雨だったのが嘘みたいに、日はさんさんと照り始めている。そのまま日に背を向けてホースから霧を出しっぱなしにする。そしたら、やっぱり、ほら、できた――。
「虹、」後ろから声がした。どきり、鳴った心音を抑えてあたしは振り返った。「作ってるんじゃん」やっぱり、声の主はココさんだった。
「作っちゃだめなんて誰か言いましたか」
「誰も言ってねえけど」
 不意に人が、ましてやココさんがいてやや驚いたけれど、あたしは平静を装った。平静が憎まれ口だなんて、我ながら少々、かわいくはない。けど、かわいくなくたって別にいい。だってあたしは、あたし。人とはあたしはちがう、のだ。
「なんで来たんです」
 あたしは眉を潜めた。が、ココさんはにっと意地悪い笑みを浮かべた。
「だって退屈だったし、なんとなく、『誰かしら』虹を作りにいるだろと思って」
 だ、れ、か、し、ら、なんて、強調しなくてもいいのに。「変なの」ちいさく、本当にちいさく、聞こえるか聞こえるかわからないくらいの声でそう言って、あたしは背中を太陽に向けなおした。変なの。ホースの水滴でできた『スペクトル』を、あたしもココさんも見ようとするなんて。これではあたしはあたしだけのあたしじゃなくて、ココさんと同じところもあるあたしになってしまう。唯一無二では、なかったのか、あたしは?不意に何かが崩れそうになる。何かはよくわからない。嘘。何かを押さえ込もうとして、下唇を、噛んだ。
「やっぱりどこからどこまでってわかんないよなあ、虹」と、前触れなく、ぽつりとココさんが呟いた。「どこからが虹でここからが空ですとか、どこからが黄色でどこからが緑ですとかはっきり言えないけど、虹だし、黄色だし、緑」
 爽やかな風が吹いた。風は日光がぴかりと当たる首の産毛を撫でて、ホースの霧の流れをぐわりと曲げた。あ、とあたしはぴたりと閉じていた唇をゆるく開いた。虹がふわりと消えた。風で頬の方に流れる髪を耳にかけなおす。もうその霧に虹は浮かばなかった。あたしはホースのノズルのダイヤを「切」に合わせた。
「なあんだ、」
「え?」
「なんかそのこと、人間にも通じるかもと思って」
 あたしは振り返った。すこしぽかんとしていたココさんだったけど、「あ、ああ」と頷いた。そのココさんの後ろで、やっぱり太陽がきらきらしていた。



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