カイロスの前髪


 しゃきりしゃきりと鋏が言う。髪が言ってるのかしら。まあ、いずれにしろ、書架に響くのはしゃきりしゃきりという、本がひしめく場所には不似合いな音。
「目、開けてもいい?」
「駄目よ」
 ぴしゃりとそう口にすると、メルトが口を尖らせたのが視界の際でちらりとだけ見えた。
 わたしが目のピントをあてているのはメルトの前髪。いつものごとくふらりと書架に来たかと思うと、前髪を切ってよと散髪用の鋏を手渡されたのが、つい先ほど。前に自分でやったら失敗したらしく、今回はわたしに頼みにきたらしい。
 吐息がお互いの顔にかかるんじゃないか、という距離で向かい合うわたしとメルト。すう、と左手の人差し指で彼女の黒い前髪を掬って、右手に握った鋏で1.5センチほどずつ切り落とす。ちょきん、しゃきり。はらはら、やや不揃いに、切られた前髪が落ちていく。メルトが顔のすぐ下に持っている屑箱の中へと。たまたまその机にあった裏紙で作った即席みかんの皮箱、もとい、屑箱。ばらりと互いにばらりともつれ合うように前髪の切れ端が屑箱で横たわった。
「ねえ、もういいかな?」
 彼女は一秒でも早く目を開けたいらしい。前髪の長さを確認したいのかしら。珍しく、赤い唇がきゅっと引き締まっている。ぎゅ!と思い切り目を瞑って、今にも開けたそうな――あら。そこでわたしは、メルトの睫に前髪の切れ端が一本だけ乗っかっているのに気づいた。
「ちょっと待って」
 その、屑箱に入り損ねたらしい前髪を取ろうと、わたしはメルトの睫に人差し指を伸ばす。揃って毛先が上を向いている睫。つ、爪が睫の先に当たる。足場であった睫が揺れて、はらり、ひとり取り残されていた前髪の切れ端が落ちていく。ぴしりと整列して並んで生えている睫は、触れると脆くて壊れそう。そう思うと、少し指が震えた。指先の横が、メルトの瞼に触れてしまった。
「ええー、――ひゃ、」
 不満声を零していた彼女だけれど、つめた、と声をあげて首を縮めた。目を瞑ったまま、で。わたしは手を引っ込める。
「ごめんなさい、睫に髪があって」
「なんだ、びっくりしちゃった」
 「もういいよね?」とメルトが首を傾げた。「一旦ね、あともう少しよ」とわたしは息をつく。鋏を持っている右手をだらりと膝に落とし、しゃきしゃき、鋏をわけもなく適当に動かした。メルトもふうと息をついて、屑箱を構える手を下げた。
「ねえヴァレちゃん」
 わたしは手元の鋏を眺めていた顔をあげた。ぱっちりと茶色の瞳をこちらに向けているメルトと目が合う。髪を切っているときはやや俯いていて目も開けてなかったから、印象の違いがよくわからなかったけれど、今、ぱち、と目を開けている彼女の前髪はすっきりして良くなった気がする。長さ自体はこのくらいでいいから、あと少し、切り損ねた髪を何本か切って――。
 ――不意、だった。色々考えてたら、急にぎゅんとメルトの顔が近づいた。元々近い距離ではあったけれど、今はそれこそ、目と鼻の先。わたしの前髪と彼女の前髪が何本か交わった。何よ、と言う前に口を口で塞がれる。一秒にも満たない口付け。すぐにメルトは顔を離した。
「ちょっと、」
 目を細めるようにしてメルトを睨み、じんわり熱い下唇を噛む。睨んでも尚、本人は悪びれた様子なく足をぷらぷらと動かしている。
「今のヴァレちゃんの目に映ってたの、あたしだけだったなあって」
 にぃ、とメルトは口角を上げた。悪戯っぽい笑み。
「……年上をすぐからかうんだから」
「年上だからじゃないよ、ヴァレちゃんだからだもの」
 彼女がにこりと得意気だから、はあと溜息が漏れる。もう、メルトはいつもこう――。わたしは言葉を返すのを諦め、膝の鋏を握りなおした。それを見て再び瞼を閉じたメルトは、ふふんと鼻を鳴らした。わたしは思わず目を細めて眉を寄せる。こうなったら、お灸代わりにぼそりと耳元でこう囁くしかない。
「……眉上までカットしてあげるわよ」
 ぎゃ!とメルトは両肩をあげた。成功かしらね。わたしはにやりと口の端を緩める。
「それはひどい!ヴァレちゃんならやりかねない」
 やりかねないって、何かしら?零れかけた笑みが思わず消えた。耳のすぐ横で、無言でしゃきしゃきしゃきと鋏を動かしてあげると、メルトはそのお喋りな口を噤んだ。
 ふうと息をついてから、やっとわたしはまたメルトの前髪に手を伸ばした。わたしも、メルト相手だから戯れ言を言ってるのに――なんて、口には出さないけれど。しゃきん、と、二人だけの書架に鋏の音が響いた。

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