Silver spoon wars
ふしぎなお茶会、きらめく銀の匙

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※ 完全捏造心の広い方向け
※ 【石楠花】ちゃんがモデル……
※ いろいろ脳内補充してほしい(文字書き失格)

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「どこから話した方がいいですか?」
「お姉さんのことならなんでもいいですよ」
「……なんでも?」
「はい」
「……【石楠花】は、いやなひとです」
「……?と、いうと」
「あたしの10歳の誕生日のときなんですけど……。ケーキの蝋燭を吹き消したときに、父が『これで【エリカ】はてんさいだな』って言ったんです。10はtenだからてんさい、っていう、あの駄洒落。そう知ってたけど、あたし、嬉しかったんです。だって天才なんてそうそうかけてもらえる言葉じゃないじゃないですか。
 でも、【石楠花】は……『【エリカ】ちゃんは天才じゃない』って、言って。別に、ただの駄洒落だから笑って流せばいいのに。『初めからなんでもできるわけじゃないから天才じゃないよね』とか、真顔で言ったんです。……覚えてます。そういうひとなんです」
「あなたはお姉さんのことが苦手なのですね」
「それ以前から苦手だったんです。モデルをしてるとあの冷たい目がクールな切れ長の目、とか言われてますけど……それが苦手、で。あたしはなんでもできる子じゃないけど、【石楠花】は『いい子』だから父母にかわいがってもらって。別にあたしが親から比べられたことはないし、それなりにかわいがってはもらえていると思うんですけれど、それはあたしがあたしを作っ…あたしが頑張ったからで。でも【石楠花】はひょいひょいなんでも乗り越えていっちゃうんです。勉強も運動も。それで、追いつけないあたしを刺すように見てくるのがいやで。それだけ言うとただの嫉妬みたいなものなんですが……あのひと、口を開けば『ああいうこと』、人を傷つけるようなことばかり言うから苦手だったんです。けど、その、10歳の誕生日のときの言葉で、一瞬で『苦手』から『いや』になっちゃいました。そこまで言わなくても、って……」
「……なるほど」
「このインタビュー、【石楠花】についての記事のためにしてるんですよね?」
「……はい、えっと、この学校の卒業生の人気急上昇中の読者モデルということで記事を組む予定です」
「じゃあやっぱりあたし、このインタビュー向いてないと思うんです。世間では――少なくとも、【石楠花】のことを知ってるひとたちにとっては高嶺の花みたいに思われてるみたいですけど……あたし、は……」
「情報はなるべく多く頂きたいので、大丈夫です――ええと、他に何か話すことは?」
「……特にないです」
「わかりました。少し、お待ちください」
 と、新聞部さん――名前、なんだっけ――は手帳に走らせているペンの速さを一瞬だけ緩めた。あたしは唇をきゅ、と閉じた。喋ってつかれた。喉がかわいている。唾液が欲しい。奥歯をがっちり噛み合わせる。きゅる、と頬の奥から唾液が湧いた。それを飲み込んだ。おかしい。口内は未だ、ぱさぱさ。あたしはあまく下唇の裏を噛んだ。なんで喉がこんなにかわいているの?いつも友達とするお喋りはこれより沢山話すのに、今みたいに喉がかわくなんてことないのに。今日はお昼のうちに水筒の中身は飲みきってしまった。早く自販機に行きたい。でもこの子が「もう大丈夫です」って言うまでこのインタビューは終わらない。ええと、小銭、どのくらいあったっけ?そういえば、GW明けから自販機は飲み物がICカードでも買えるようになったんだった。なんでもICカードで支払うのにはあたし、ちょっと抵抗があるけれど、そういう考えって時代遅れなのかなあ。
 そんなつまらないことをできるだけとりとめなく考えながら、あたしはふたつの机を向かい合わせて真正面に座っている新聞部さんのおでこに視界のピントを合わせたり、ぼやかしたりしていた。あたしは人と話すときには相手のおでこを見るようにしているからだ。よく目と目を合わせて話しなさいなんて言うけれど、あたしにはできない。なんでかわからない。目と目を合わせようとするとどうしても逸らしたくなってしまう。人から真っ直ぐに見られるのがいやなのかもしれない。【石楠花】のあの視線を連想してしまうから?自分でもわからないけど、とにかくいやなのだ。
 新聞部員だという彼女のおでこにかかっている前髪はきちんとくるりと巻かれていた。おでこに髪がかかる、というよりは髪の毛先がおでこに乗る、というような。彼女は俯いて、机の手帳に走らせるペンの動きをやめない。ぴたりと考えるように止まっても、言葉を見つけた手はすぐに動き出す。
 その子の顔の横に垂れた触角が、ぴくりと揺れた。
「――ひとつ、質問、いいですか」
 彼女はざっと大きく手帳に一本の線を引いて、ぱっと面を上げた。その赤茶の瞳は真っ直ぐだった。視界に突如現れたその眼差しに、あたしは思わず喉を怯ませた。
「あ、はい」
「あなたの誕生日はいつでしょうか」
 あたしの、誕生日?
「6月20日、です」
「6月20日、ですね」
 はい、とあたしが返事をするよりも前に、彼女はがさがさと手帳にその日付を記して、ぱたんと閉じた。新聞部員さんはにこりと微笑んだ。
「本日は貴重なお時間頂いてありがとうございます。以上でインタビューは終わりです。ありがとうございました」
 その言葉はどこか、彼女の口の動きとあっていない気がした。確かに彼女の口から発されている声だ。だけれど。決められた台詞を口にしている、ような。でも当然か。こういう挨拶は、テンプレートがあるのだ。
「こちらこそ」
 あたしもにこりと微笑んだ。社交スマイル。15年、いや、16年弱も生きていれば、人間はこんなことくらい簡単に身につけてしまう。
 新聞部さんはせっせと取材道具を片付け始めた。手帳、ペン、ボイスレコード、肩から提げていたカメラ――今回のあたしの取材では必要なかったみたいだけど――を、小さなトートバッグに入れ込んでいる。あたしもぐうんと伸びをした。肩がかちこち。お喋りとかは日頃から友達とやっているのに、「インタビュー」はなんだか、緊張してしまったみたいだ。
 教室の時計にちらりと目をやった。5時少し前。下校時刻まであと1時間強。6月の今頃、この時間帯はまだ空は明るいはずだけれど、絶賛梅雨前線停滞中の今、窓から見える空には低い雲が所狭しとぎうぎうに詰まっている。まるで――まるで、何?あたしは胸元に目線を落とした。思考がぷつんと途切れた。まあいいや。面倒臭くなって、襟元のリボンをいらう。
 彼女は荷物をまとめ終わると「では、何かあればまた連絡します」と一礼して教室を出て行った。何かあれば、か。あたしはほうと息をついた。あの子は去って、教室はがらんどうになった。が、ら、ん、ど、う。わけもなく、あたしはそう声は出さずに口を動かした。そういえばあの子、ボイスレコーダー、持ってたな。あたしの声があれに入ってるんだ。そう思うとごくりと喉が鳴った。――忘れかけていたけれど、喉がかわいていたんだっけ。
 あたしも荷物をまとめた。勢いをつけて学生鞄を背負う。ぱちんぱちんと蛍光灯の明かりを落とすと、暗くなった教室とぼんやりと明るい窓の対比で、窓の雲のどんよりさが目立った。あたしはきゅ、とじめじめした床に靴を鳴らして教室を出た。

 その日まっすぐ家に帰って夕食をとると、あたしはリビングのソファに腰掛けた。少し疲れた体がぽすんとソファに沈む。金曜日だから課題のことはちょっと忘れて、少しくらいくつろいだっていいよね。あたしはテレビをつけ、録画していたドラマを見始めた。
 お父さんがテレビの前のテーブルにぽんと置いてあった新聞を取りにきたり、お母さんが明日のご飯の仕込みをキッチンではじめたりしている間、ドラマはドラマチックに進行した。画面内ではOL(役の“みんな”から人気のあるかわいい女優さん)が今、(こちらも今話題の俳優さん演じる)同僚を助けるために町を走り出したところ。ピッとリモコンのボタンを適当に押して、動画の進行状況バーを表示させる。もうあと終わるまで5分くらい。ということはクライマックスの結果は次回かな。あたしはソファのビーズクッションを抱き直した。華やかなBGMとかッかッかッ、というヒールのある靴の音が同時にあたしの耳に入ってく。
 画面の中のOLは、息を切らして立ち止まった。と、【石楠花】がソファに腰掛けた。あたしの隣。3人は楽々腰掛けられるソファ、向かって右に座っているあたしの隣。わざわざ真ん中に腰掛けないでも、左側に座ればいいのに。条件反射というか、あらかじめそう体に刷り込まれているというか、あたしはもっとソファの右へ、できるだけ右へ、【石楠花】から離れるように右へ体をよじる。【石楠花】はこんなドラマ、好き好んで見ないのに。そう好きじゃないなら悪態をつくんだろうから、気分が悪くなるからやめてほしい。どっか行って、邪魔しないで。あと2分なのに。
 そう、クッションに爪を立てた。しかし祈り儚く、あろうことか、【石楠花】は口を開いたのだ。
「ねえ【エリカ】ちゃん、【エリカ】ちゃんは今年の誕生日ケーキ、何にしますか」
 何にしますか、って、誕生日ケーキは二人でひとつしか買ってもらえないのに。【石楠花】とあたしは誕生日が同じなんだから。
「今、テレビ見てるの」
「――私は抹茶がいいなと思ってるのですが」
 人の話、聞いてるのかな。クレジットが画面下に流れ出した。あたしはきゅっと口を結んで液晶に意識を集中させる。
「【エリカ】ちゃん」
 彼女はあたしの座っているすぐ横に手をついてぎ、と顔を寄せてきた。ほっといてよ!わざわざテレビを見ているときに話さなくてもいいじゃない。そう鼻の辺りを歪めていると、急にテレビの画面がおかしなところで静止した。え、と息を飲んできょろりと周りを見ると、【石楠花】がリモコンを手にしていた。瞬間、あたし、理解する。この人が、止めたんだ――。
「【エリカ】ちゃんはイチゴ?チョコ?チーズ?もう誕生日まで一週間ないし、そろそろ話して決めておかないと、ですからね」
 何事もなかったかのように、この人はふうと息をついてリモコンをテーブルに置いた。
「――自分で買えばいいんじゃない」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。【石楠花】みたい。そう思うととてもとても嫌だ。この人みたいになんてなりたくない。でも、でもそれでも口が、唇が、舌が、喉が、何かにせき立てられるように震えて動いて止められない。
「抹茶ケーキがいいなら自分で買えばいいじゃない。バイトしてるし、実家生活でしょ?バイトしたお金で買えばいいよ」
 ひゅ、と息を吸う音が聞こえた。自分のか【石楠花】のかはわからない。空耳かもしれないし、どっちのでもあるかもしれない。
「次二十歳だよ、もう二十歳になって家族に我侭言うのやめてよ――あたし、ケーキ、なんでもいいから。なんでもいいから」
 腕の中のクッションのビーズが悲鳴をあげている。喉が苦しい。とてもかわいている。
「――どうせ【石楠花】の意見が通るんだからなんでもいいの」
 そう言ってわたしはクッションに口元をうずめ、【石楠花】を睨んだ。目にハイライトのない、見下すような冷たさで、【石楠花】のように――ああ。【石楠花】の緑の瞳が揺れている。人気読者モデルに相応しい、綺麗な。目。ねえ、あたしの目は?クッションの端が眼鏡に当たってずれて、視界がぐにゃりと曲がった。
「ちょっと【エリカ】、また喧嘩してるの?」
 凍った空気を察知してか、お母さんが台所から飛んできた。あたしが喧嘩してる?って?
 あたしはクッションを投げ飛ばして、リモコンを【石楠花】から引ったくり、テレビの電源を落とした。ぶちん。画面は真っ暗。ソファに座る【石楠花】と、立ち上がったあたしと、眉を寄せているお母さんをぼんやり映して。
「なんでもないっ」
「【エリカ】ちゃん、」
 【石楠花】の呼び止める声なんか右耳から左耳に流して、リビング脇の2階への階段を駆け上がった。自分の部屋に飛び込んだ。バタンと乱暴にドアを閉めた。ベッドの布団にダイブした。酷く喉が渇いていた。

 XOXO

「ねえねえ【エリカ】ちゃーん、お誕生日おめでとう」
「ありがとー…って、それ、今日言ってくれたの何回目?」
「8回目かな」
「数えてたの…?」
 昼休み、友達とふたり教室で机を並べてお弁当を食べていた。彼女の言葉にふはりと苦笑しながらあたしは水筒を傾けてお茶を飲もうとした。が、水筒はからからからと無情な音を立てる。
「あ、空になっちゃった」
「なんか買ってくる?自販機で」
「うん」
 あたしはスカートのポケットを探りながら椅子から腰を浮かした。このポケットにはいつも財布を携帯している、の、だが。かつりと左手の爪がポケットの中で音を立てた。そわりと首筋が冷たくなる。
「……財布、落としたかも」
「え」
 友達の目が丸くなった。ポケットの中にあるはずの財布が、ない。代わりに、いつも胸ポケットにいるはずのスマホがそこにいる。あたしはいつスマホをここにいれた?財布はどこ?かつかつかつと爪の先が滑らかなスマホの側面と当たる。「忘れた……とかじゃなくて?」
 友達は徐に首を傾げた。あたしはとりあえずスマホを胸ポケットに入れなおして、あわあわと周りを見渡す。
「今朝、[学校の最寄り]駅でパスモのチャージしたから……」
 どうしよう!あたしはばっと机の横の学生鞄の中身を探る。いくらがさごそしても財布はない。
「一緒に探す?大丈夫?」
 心配そうに、彼女はそう声をかけてくれたけど、あたしはううんと首を横に振って立ち上がる。
「大丈夫、ごめんだけど、ちょっと職員室の落し物んとこ見てくる」
 いってらっしゃい、という声を背に、あたしは教室を出た。
 職員室に行ってみたけれど、あたしの財布は届けられていなかった。もしかして盗難?と、職員室から戻る廊下を重い足取りで歩きながら考えた。【石楠花】が入学して卒業したくらいだから、まあ、ここは進学校ではあるわけだけれども、盗難とかいう事件がないわけではない。去年の一学期の終業式、蒸し暑くてたぶんみんな早く体育館を出たかったろうに、早口なのに話の長い先生がその一学期の始めに起きた盗難事件について5分も遺憾の意を全校生徒の前でスピーチされていたことを思い出す。でも盗難と決まったわけじゃない。あたしの貴重品管理が杜撰だったのかも。そもそもあたしが駅で落とした可能性が高い。今日は朝、少しぎりぎりの電車に乗っていたから、チャージした時も焦ってて財布がうまくポケットに入らないまま学校へ歩いてその途中で落としたのかも。かも。かもかもかも、「かも」しか出てこない。はあと溜息が漏れる。
 とぼとぼとぼ、歩いていると、いつのまにか時間がとても経っていたのか、5時間目の始まりの予鈴のチャイムが鳴った。あたしは慌てて廊下を小走りに教室へ戻る。途中、自販機の横を通った。ああ。喉が渇いたままだったことを、思い出した。

「じゃーはい、今日はここまでー。次は新しい単元入るんで、予習しといてくださいね」
 財布のことを頭の片隅で考えながら、がさがさとノートを取っているといつのまにか5時間目が終わっていた。委員長の「気をつけ、礼」でみんながなんとなく頭を下げるのに合わせて、シャーペンの最後の一走りをさせながらあたしも頭を下げる。「ありがとうございましたー」とそこらへんで声がわいた後は、ざわりと教室に話し声が生まれた。その度合いが今日はいつもの5時間目の終わりより高い。なぜって今日は珍しく5時間授業なのだ。先生方が講演会に会議に忙しいらしい。先生方の監督もないので部活動等の諸活動は今日は禁止、つまり、生徒たちは今日の放課後は完全フリー。まあ、テストが近いからそううかうかもしてられないんだけれど、ね。
 あたしはぐりんと首を回した。学校が終わったという気持ちと、家に帰らなくちゃなのかという気持ちと、財布を失えた心配の3コンボであたしは溜息が漏れる。今日はいつもより早く【石楠花】が帰ってくるだろう。妹の誕生日だからとか何とか言ってバイトもシフトをいれていないはず。あの誕生日ケーキのことを話した日からあたしと【石楠花】は一個も口をきいていない。いやだなあ、家。思わずがくんと机に突っ伏す。歴史の重みがひしと感じられる(らしいけどただのぼろい)校舎の机の足の高さは微妙にずれていて、あたしが体重をかけるとがたがた音を立てて揺れた。
 と、フォン、と胸ポケットのスマホが鳴った。もぞもぞもぞ、と取り出して画面を見ると、母からのメッセージが届いていたみたいだった。
『【エリカ】は今日は5時間授業よね。[ケーキ屋]で3時に予約した誕生日ケーキなんだけど、悪いけど帰りに取ってきてくれないかしら。急用ができちゃってばたばたしてて取りに行けそうにないの。お願いできる?』
 うー、とあたしは思案声を漏らす。別に頼みごとを受けるのは構わない。ただ、財布の問題が……。というか結局、ケーキは何になったんだっけ?それからちらり、あたしに頼まないでも【石楠花】に頼んでもいいのに、と当て付けるように考えてしまったけれど、3時半ならまだ彼女も大学の講義を受けているはず。個人的な感情を丸出しにして浅い考えしかできない人にはなりたくない。――あの、ドラマを見ていて【石楠花】と喧嘩した日は、なっちゃった、け、ど。
 もやもやした記憶を振り払うようにふうと息をついて、あたしは母の代わりにケーキを受け取ることを決めた。でも財布を失えたあたしに今のところお金はないので、『いいよ、ケーキのお金は前払いだったっけ?』と返信する。数秒待つと、ぱっと『お金は前払いだから、【エリカ】はケーキを受け取るだけでいいわよ』とメッセージが帰ってきた。
 はあい、と打ってスマホを胸ポケットに戻した。あー、財布。ぐでんと机に突っ伏したまま、窓の外を覗いた。今日も雲がびっしりと空を埋めている。あたしは目を閉じた。ホームルームの始まりのチャイムが、鳴った。

 いつもは一緒の電車に乗る友人と学校の最寄りの駅前で別れ、あたしは自分の財布が落し物として届いていないか確かめるべく駅前の交番へと足を運んだ。
 交番、ということで建物自体は小さいが、警察の一部ということでどこかいかめしい雰囲気が漂っている。あたしはおそるおそる、交番の扉をくぐった。警察さんに対してやましい思いは断じてないけれど、交番や警察署などの類を訪問したことはないのでどうしても身体がどきどきしてしまう。大丈夫、あたしは落とした財布がここにないか聞きにきただけ。何にもあたしは警察に睨まれるようなことはしていないはず、だけど――10歳のとき、自動販売機の下に落ちていた小銭を猫糞したことだけは、許してください、神様!
 そう乞うてもしようがないし、大して今後の人生にダメージのないような祈りを天に捧げつつ、あたしは入ってすぐの、フロントというべきか、カウンターというべきか、そこに目を向ける。誰もいなかった。誰もいないなんて、少しこの交番、無防備じゃないかなあ。外観のいかめしい雰囲気が台無しで、面食らう。
「すいませー、ん、」
 伺うような声で呼びかけてみると、パーテーションで区切られた奥の方から「はいはい、ちょっと待ってくださいねえ」と、大きな低めの声で返事があった。それからごにょごにょ、__ごにょ、と小さめの声がする。言葉と言葉の間に不自然な間が空いているので、どなたかと電話でもされているのだろうか。
 仕方ないので、ちょこん、あたしは無機質で白っぽい交番の一角の端に立ち淀む。やはり交番はなんとなく居心地が悪い。自意識過剰極まりないのだが、警察のテリトリーなだけで自分がどこからか監視されているような気がしてしまう。パーテーションに耳あり、白い壁に目あり、というような。飲み込む唾がいつもよりやや固くなる。
 そんな無機質な空間とはいえ、壁の一角を有している緑色の掲示板にはいくらかポスターが張ってあった。『指名手配犯!情報は〇〇警察署まで(TEL:×××)』『ごめんで済むなら警察はいりません!』『この町を、守る。』いかにも、警察、という感じ。かっちりしたポスター。ほかの道府県にもありそうな、何の変哲もない――。
『嘘つきは泥棒の始まり』
 そう、一番端っこに貼ってあったポスター。昔のなのか、角がひとつ破れて画鋲から外れている。目をただ掲示板に流していただけなのに、それが目に入った途端、胸がどくんと跳ねた。他の誰の心臓でもない。紛れもなく、あたしの心臓。どうして?ぎゅわり、肩にかけた学生鞄を掴む手に汗が染み出る。皮の生地を掴むようにじわりとした手の感触をそれに押し付ける。
「どした?お嬢ちゃん__落とし物かな?」
 人柄の良さそうな笑みを浮かべた、中年のお巡りさんが奥から出てきた。目が細い。あたしの首が硬くなった。お巡りさんの細い目。どんどんどんどん細くなる。首より上の毛がよだってうまく口が開けない。息が。息が苦しい。詰まる。細くなる。細くなって細くなって細くなる。その細くなった瞼の間から瞳の光が零れる。零れて真っ直ぐあたしに向かう。どこに曲がることもなく真っ直ぐ。それはあたしの喉を突き刺した――『うそつき!』
 そう、脳内に響いた。なぜかあたしの声で。同時にあの【石楠花】の鋭い目も頭にフラッシュバックする。あたしはがつんと頭を殴ってきたその言葉に弾かれたように後ろに足をすすめた。でも背中のすぐ後ろは壁で、ローファーの踵がごつんと音を立てた。途端にひとつもできなかった息が、打って変わって荒くなる。奥歯を噛んだ。唾がぎゅるりと口内に湧いた。
「いえ、あ、あの、なんでもありませんっ」
 上ずった大声。財布のことなんて頭からすっ飛んだ。なんのために交番に来たの、あたし。わけのわからなさと恥ずかしさ半分で、あたしはだっと走って交番を飛び出た。あ、ちょっと、というお巡りさんの声が扉を開けたときに後ろから聞こえた。
 走るために蹴る地面にはぽたぽたと涙の染みができている、と、思ったら、いつのまにか外は雨がぽつぽつし始めていた。眼鏡に水滴が走る。腕まくりしたシャツの袖で乱暴に拭くと、うまく拭き切れなくて辺りがぼんやりとした。でもそんなことは関係ない。どくどくしている心臓にやられて既に視界が、あたしが見てきたもの全て、全てがぐらぐらだ。ぐらぐらなあたしは立っていられない。立ちたい。どこに?知らない!
 交番を駆け出したあたしは、湿り気の多すぎる6月の風に乗って目の前の駅の改札に飛び込んだ。ピッとおどけて嘲笑うような定期券タッチ音が鳴るのを振り切って。

「あの、あの、終点ですよ」
 肩を叩かれた気がしてあたしは顔をあげた。そこは電車の車内だった。OLらしきお姉さんがあたしの顔を覗き込んでいる。
「…あ、終点、」
「終点です、」
 では、目を覚まされたみたいなので失礼しますね、とお姉さんはぺこりと一礼した。
『ご乗車ありがとうございます。この電車は各駅停車、折り返し○○駅行きです』
 ききとりやすい女性の声の車内アナウンスをぼんやりと聞き流した。ああ、ここ、終点。車窓の外は、知らない街。行ったことのない下町。薄汚れた低めのビルがぽつぽつと水滴のはしっている窓を埋めていた。
 あたしはシートに座ったまま、車内を見渡した。がらんどうだ。が、ら、ん、ど、う。人ひとりいない。立ってる人も座っている人もいない。あたし以外に誰もいない。いない。ぎゅ、頭を乗せて寝ていた学生鞄をきつく抱く。
 と、そこへスーツに身を包んだサラリーマンらしき男性が車内に乗り込んだ。男性はちらりとあたしの方を見た。すぐにあたしから目を逸らして、あたしから一番遠いシートに座った。あたしは首を縮めた。冷ややかな目線を向けられた。そうとしかあたしは思えなかった。
 気づくとあたしの視界はじわりじわり、歪んでいる。ぽたんと革の学生鞄に水滴が落ちた。がし!とシャツの袖口でそれを拭った。あたしはその勢いで席を立った。車内を抜け出した。知らない駅のホームを走った。下に降る階段があったのてそれを駆け下りた。ホーム階の下には改札があった。パスモをいれたスマホを改札に突っ込みながらかざした。『定期券利用/残高:15円』と改札の右に表示された。がっとスカートのポケットにスマホを突っ込んで、そのまま駅から外へ飛び出した。とにかくここから出たい。夕方、帰宅ラッシュの最中、駅から吐き出されたり吸い込まれたりするサラリーマンや学生の波をかき分けた。ぱらぱら、交番にいたときよりはしっかりと雨が降っていた。一日中曇っていた日だったけれど、雲の向こうでもう日は沈んでいるのがなんとなくわかった。身を切る風がひんやりとしていた。傘を差していた通行人と肩が当たった。舌打ちと突き刺すような目を背中に受けた。はやくここから出たい。雨でつるつるした地面にこけてしまいそうになった。思わずうわっと声が出た。周りの通行人たちがちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らした。どうにかしてここから出たい。ここから出させてほしい。あたしはどこだかわからない雨の町を逃げた。
 気づくと息を切らしてどこかの商店街で立ちどまっていた。あたしはスカートに突っ込んでいたスマホが震えていることに気づいた。疾走していたわけではないけれど、どこかで立ち止まった記憶はなかった。いつからこのスマホは震えていたんだろう。ぶぶぶ、ぶぶぶ、と太腿で虫が這っているみたい。うるさい。雨でじっとりしたスカートのひだに手を突っ込んでスマホを取り出した。どうせお母さんか【石楠花】あたりからかと思ったけど、画面に表示されていた名前にはあまり見覚えがなかった。「マロン」って誰?こわいのとただうるさいので、あたしは電話を切ろうとした。けれどその手前で気づいた。たしか、新聞部の子?LINEの連絡先しか持っていなかったから、こんな名前表示なんだ。あたしは慌てて電話を取った。スマホを耳に当てる。「もしもし」髪が雨で濡れていて気持ち悪いけど今更もう慣れた。「新聞部の方ですか」
「――はい。突然電話しちゃってすみません。明日、インタビューした内容を載せた記事が来週の火曜日に、新聞部の部室の横に貼る予定の壁新聞に出ますので、お伝えしようと思って」
 ああ、と上ずった声を出した。喉がかわいているのに初めて気がついた。
「メッセージじゃなくて電話でお知らせする決まりでして――こんな決まりいるのかな。じゃなかった、それで、電話しました」
 インタビュー。どんなことを話したっけ――ああ、【石楠花】のことを話した。あたしは【石楠花】のことが嫌いだって言って……。じっと睨むような細い目をなぜか思い出した。誰の細い目?今度は、ああ、という声さえ出なかった。喉元を左手で押さえる。うまく動かない。
「お忙しかったみたいなのでこれで失礼します。あ、あと――」
 がさがさがさっと、スピーカーからノートをめくるような音が漏れた。がんがん遠くから痛みが響いてくる頭に押し付けたスマホから、再びまた彼女の声が流れる。あたしにインタビューしたときより少し高い声音の、明るい、声。
「今日、二十日ですよね?――誕生日おめでとうございます。それでは、」
 しつれい、します。やっと喉から掠れた声が出た。あたしはだらりとスマホを持つ手を下げた。『【エリカ】、あなた、まだケーキ取りにきてないってお店から電話あったわよ?どうしたの?』と、母からのメッセージがフォン、とロック画面に浮かび上がった。あたしはそんなの無視してスカートにスマホをつっこんで、頭を抱えてアーケードの道端にしゃがみ込んだ。喉もとを押さえた。人々の喧騒の遠くで、つまらなそうな顔の梅雨の雨音が聞こえた。
 あたしは嗚咽を漏らした。ぐわぐわと頭の中が揺れて痛くてたまらなかった。
 今日は、【石楠花】の、誕生日。あたしの大嫌いな【エリカ】の、【石楠花】が大嫌いな【エリカ】の誕生日だった。


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