ふるさと


 京都に行きたいから着いてきて、と都が言ったのはつい二週間ほど前のことで、俺がつい適当な返事をしてしまうとすぐに彼女は福岡行きの船を予約し、博多から京都の新幹線も、京都の宿も押さえた。仕方なく日本への観光ビザを取り、自室の戸棚の重要書類を入れた鳩サブレ―の缶からパスポートを引っ張り出し、都に連れられて港町へ向かった。
「そういえば、なぜ京都に」
 この土地でよく作られているらしいミカンを使ったジェラートをスプーンですくいながら、都はちょっとぽかんと口を開けた。
「うちに誘われたからやろ」
「そうではなく」
「まー、京都にはなんでもあんねん」
 それを言うなら東京の方がなんでもありそうだが、と言いかけたのをやめて、大人しく梨のジェラートを口にする。今日は気温が高いからだろうか、船に乗り込むのを待つ港の待合室には、同じようにジェラートを食べている者が多い。港のすぐそばに店を構えるジェラート屋の前には列ができていた。さら、とジェラートは舌の上で溶けていって、梨の繊細な甘みが広がっていく。
「だから、何しに行くのかって」
「えー、山登りー」
「え」
「なあ、梨のちょっとちょうだい」
 おい、ともああ、とも言えなくて、俺の手の紙カップの中のジェラートは少しなくなった。やまのぼり、という五音を脳内で反芻するしか、俺にできることはなかった。

 船の中で夜を越して、翌朝、日も高くなってきた頃、船は福岡に着いた。太宰府も行きたいねんけどな、まあ、帰りに行こ、とかなんとか言って、新幹線を使って足早に福岡県を去る。少し酔ってしまったのか、船に乗った感覚が三半規管に残ったまま、新幹線の通路側の席で文庫本を開く。窓側に座っている都は気づかぬうちに眠ってしまっていた。背もたれを少しだけ倒して、頭を通路側にごろりと向けている。幸せなやつだ、とちらりと思う。
 行くのは鎌倉ではなく京都だが、館を出る時になんとなく手に取った本は『こゝろ』だった。読んだことがあるはずだが、内容の記憶は朧げだ。名作と言われていることは知っているが、何が名作なのかはよく分からなかった、ということしか覚えていない。ぱら、と適当に真ん中あたりのページを開いて、途中から読み始める。

 父は死病に罹っている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」
 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
 時とするとまた非常に淋しがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。

 移動販売車が横を通った。俺は顔を上げた。さっきと同じように、明るい新幹線の車内が目に飛び込んできて、明治時代の田舎町の風景は泡のように消え去る。都はやっぱり隣で眠っていた。時折肩のあたりが動くので、生きていると分かる。

「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといっていいくらいです」

 読み始めてまだ数分も経っていないが、俺は本を閉じた。京都の街並みはどうなっているだろうか、と、考えてみるが、考えても仕方のないことばかりで、とりあえずまた本を開く。暇をつぶすためだけに、活字を追うだけ追う。船が揺らされた波の感じがまだしていて、京都はまだ遠い。

「大阪着いたでー、なあ」
 はっと目を覚ます。都が俺の肩を波が打つようにゆさゆさしていて、まだフェリーの中だったかと錯覚してしまった。いつの間にか都は起きていて、代わりに俺がうとうとしていたようだった。うん、とかああ、とかいうような返事をして、ぱちぱちと瞬きする。乗客の半分くらいが大阪で降りたようで、空いた座席に新しい人がまた座る。机に置いていたはずの本がない、と思ったら、都の手の中にあった。
「『こゝろ』、」
「ねー、この本ちょっと借りてていい? うちこれ読んだことない」
「高校生の時読まなかったか」
「えー、せやったっけな。うち現代文の授業真面目に聞かへんかったよ」
 なぜか自慢げに都は笑っている。かと思うと、「あ、あの人、ごーごーいちの袋持ってる」とか言って、窓の外のホームを眺め出す。
「というか、本当に山登りしにいくのか」
 え? と、都は俺の方を振り返る。「山登りっていうか、坂登り? まあ、大したことないで」
「伏見稲荷の山頂まで行くとか?」
「え、そう言われるとそれも行きたい気ぃするなあ」
 ぬるっ、と空気が動いた感じがして、新幹線は大阪駅を発車した。まあ、もうちょっとで着くし、降りる用意しよー、と、山登りのことははぐらかされる。不安が残ったままで、俺は席のポケットに入れたままだったお茶のペットボトルを鞄にしまった。

 坂を登る、というのは嘘ではなかった。京都駅からJRに乗り、稲荷駅で降りた。本当に稲荷山を登るのでは、とちらりと思ったが、都は神社へと流れる人の波には乗らず、南へと進んでいった。そしてちょっと進んだところで立ち止まり、今からあれを登ります、と東の方を指さした。そこには車がぎりぎりですれ違えそうな細い道が、斜め上に向かって続いていた。急な坂だった。京都駅のコインロッカーに重い荷物を預けてきたとは言え、少し身震いするような坂。
「行くで」
 小さなポシェットだけを持って身軽になった都が、いざ、と踏み出す。「本気?」「当たり前やろ」
 まあ、坂ぐらいなんとかなるだろう、とは思ってはいたが、やや平らになっているところは道の交差点くらいで、他は全て上り坂。割と日差しもある。都はバケットハットを被っているが、俺は何も持っていない。地味にきつい坂だ。家々の短い影の中になんとか入り込みつつ、歩き続ける。
 目的地にたどり着いたころには、かなり疲れていた。都も額をハンカチで拭っている。坂は途切れて、平らな土地が少し広がっている。そこには墓石が並んでいた。
「山登りではなくて、お墓参りと言ってくれれば良かっただろう」
「だって、そんなん言うたら一人で行きーって言うやろ」
 たしかに、言いそうだ。都の知り合いの墓参りに、俺がいたら場違いじゃないかと思う。
「でも、山登りって言うてよう着いてきてくれたな」
「いや、それは嘘だろうしなと」
「見透かされてたってことかあ」
 稲荷駅周辺はあんなに人がいたのに、墓地を見渡しても人は俺と都しかいなかった。背の低い墓石がたくさん並んでいて、建物に囲まれた坂を歩いているときよりも相対的に空が近く感じる。いや、それでも遠い。館にいても京都にいても、コンビニにいてもロンドンにいても、絶対的に遠い。死んで灰になったら近くなるのだろうか。重い石の下にいたってそう変わらないだろう。
「悠陽くん」と言って、都は数ある墓石のなかのひとつの前で立ち止まる。「ここです」
「ここ」
「わたしの父と母と姉が眠っているはずです」
「はず」
「起きているかもしれませんからね」
 ははっ、と、都の笑い声が少しべたべたした夏の昼に染み込んでいく。どんな顔をしているか、帽子であまり見えなかった。と、都が俺の服の裾をちょっと引っ張って、墓前に屈みこむ。引っ張られるがまま、俺もしゃがんだ。なんとなく墓の真正面は見れなくて、俯く。
「かあちゃーん、この人、悠陽くんって言うんやで。まあ知っとるか、だってかあちゃんいつもうちのこと見てくれとるしなあ」
「何を言い出す」
「悠陽くん紹介しとってん。自分でする?」
「いや」
「もう分かっとると思うけど、この人、恥ずかしがりやねん」
 俺は肩を竦めた。そんな紹介の仕方があるのか。いや、そんなことを言うのならば自分が自己紹介すればいいのだけれど。
「みんな、うちらこれからお稲荷さんの上の方まで行くから、応援してなー」
 思わず顔をあげた。都が墓石に向かってひらひらと手を振っている。
「え、聞いてない」
「だってさっき新幹線で言うたの悠陽くんやで」
「本気?」
「当たり前やろ、悠陽くんを連れまわしてこその富谷美也子やもーん」
 甘えたような声を都が出す。あ、かあちゃんが墓地でいちゃこらすんなー言うとるわ、でも姉ちゃんはもっとやってええでって言うとるで。どないしよー、と、帽子の影の中で都の唇が弧を描く。
「ま、とりあえず合掌するわ」
 と、都は黙って目をつむり、手を合わせ始めた。俺も倣って、一応、手を合わせる。都の親族が眠っている墓、か。おはようございます、こんにちは、悠陽です。はじめまして。美也子さんは元気ですよ。たぶん。たぶん、辛いことがある時もあるけれど、楽しく過ごしてる日も多いと思います、たぶん。
 よし、と都が立ち上がった気配がして、俺は顔を上げる。行こか、と言われて、俺たちは墓地を去った。
 先ほど登ってきた下り坂の前に立つと、京都盆地と空が広がっていた。高速道路や、点のように見える建物がぎゅうと山々に囲まれている。都はここら辺で育ったらしい。館に住んでいる都のことしか俺はまだ知らない。
「都」
 俺は坂を下り始めようとしている彼女を呼び止めた。都の水色のスニーカーが、つっと止まる。
「稲荷大社の次、どこに行く」
「うち、やっぱ、河原町かなあ」
「どんなところ」
「商店街!」
 黒髪を揺らして、都は笑った。京都のパノラマを見渡す彼女の背中の白いTシャツに、世界地図が書かれていることに、今気づいた。
「この坂、走って下りたい」
「どうぞ」
 本当に、都はわあーと言いながら、走っていって、そして一つ目の交差点で後ろを振り返って、俺が降りて来るのを待っていた。俺はゆっくりと下り坂を踏みしめた。夏空の遠いところで、高く、飛行機が飛んでいた。

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