冴ゆる宇宙に

1.深雪  
2.孤独の星
/.あとがき


孤独の星

 午後十時、おれは明かりのないバス停に立っていた。ロゼが、今夜、実家への帰省から帰ってくる。
 夜の空気は昼にも増してうんと冷えていて、自分の周りにある外気すべてが冷え冷えとしていた。自分の手を擦ってみても、ただ冷気にやられた冷たい手があるだけで、自分自身にさえぬくもりの感じられないのが不気味だった。ここにはおれひとりしかいないのに、自分自身でさえ、寒さに消えゆきそうだった。
 向かいの車線の方には住宅地があり、明かりの付いている民家もあったが、このバス停のすぐ後ろは一面畑で、街灯はない。後ろを振り返れば、冬の闇が広がっている。おかげで、星がよく見えた。何も星座に詳しくないのに、おれはただ星空を眺める。きんと冷えた大気のずっと向こう、もっと冷えた宇宙のずっと向こう、星が冴え冴え光っている。我々が星雲と呼ぶものを構成する星たちにしてみれば、隣の星の存在など知り得ないのだろう。自分が回っているだけで精一杯なのである。万有引力というものがありながら、彼らはお互いを認識できない。寒い宇宙に自分のような輝く星はたったひとりしかいない、と思っているかもしれない。
 もしかして、ロゼは帰ってこないのではないか。親族の葬式に参列する、と出ていったロゼの後ろ姿を星空に思い浮かべる。あのときのロゼの髪がどんな薄青色だったか、あのとき着ていたコートの色や形はどんなだったか、まだ今は思い出せる。しかし、彼女はおれを覚えているのだろうか。ああ、覚えていないはずはない。今ロゼに電話をして、おれのことを覚えているかなんて言えば、そんなこと聞いて急にどうしたんですか、と笑われるだろう。けれど、その確証はどこにもない。全てはただの確信でしかなかった。
 と、闇をつんざくような強いライトを照らして、バスはやってきた。おれは星を見るのをやめた。バスは停車して、人をひとり降ろした。彼女はスーツケースを抱えながら、一段一段バスのステップを降りた。そして、闇におれの姿を見つけると、驚いたように声をあげた。
「わ、こんばんは」
 コートに身を包んでいるのか包まれているのか、あたたかそうな人陰を残して、バスは行ってしまった。車体のライトは曲がり道の遠くに既に消えており、ここに明かりはわずかしかなく、彼女の顔はよく見えない。本当にその人影は彼女なのだろうか。いや、ロゼだと思う。
「おかえり」
 おれはそう言った。彼女は困ったような、照れたような声音で、「ただいま」と言いながら、スーツケースを身に引き寄せる。おれはそのスーツケースの陰を指さした。
「それ、持つよ」
「重いですよ」
「いいから」
 じゃあ、遠慮なく、と、彼女はスーツケースをおれの方に転がした。おれが彼女の持っているものを持ってあげると言うとき、大抵彼女は遠慮して半ば頑固に断るのだが、こう、たまにあっさりおれに引き渡すとき、持ってみるとかなり重たい。そして、このスーツケースも、引いてみるとそこそこに重かった。やっぱりロゼだ、と思う。
 それからおれたちは、ふたり並んで館へと歩き出した。しばらく、無言だった。彼女は気丈に振舞おうとしているようだった。なんと声をかければいいのかわからないまま、スーツケースの車輪がごろごろ言い続ける。
 ふと、彼女が口を開いた。
「今日、星、きれいですね」
 そうだな、と、おれは返事する。ちらり、彼女の方を見やると、民家の向こうの遠くの星空を彼女は眺めていた。ふわふわとした長い髪の陰が、冷たい空気に少し揺れていた。
「あっち――実家の方じゃ、星、あまり見えませんでした。ずっと雨で晴れてなかったし」
「そうか」
 すると、彼女はふふ、と笑った。
「『そうか』、っていうの、安心するから好きです」
 彼女はそう言って、こっちを向いた。闇にはっきりと彼女の表情は見えなかった。それなのに、星だけがはっきりと空に映っていた。おれは黙ってしまった。
「そこは、『そうか』、って言ってくださいよう」
「そんな」
「そうか、ですって」
 と、車道をひとつの自動車が通り過ぎた。星の光をも飲み込んでしまうような強いライトが、彼女の顔を照らした。ロゼだった。ロゼが、頬を流れ星が描く曲線のようにゆるやかに上げて、あたたかく笑っていた。
「そうか」
 おれは言った。冷たい風が吹いて、ふたりの間を通り過ぎたが、もう大丈夫だった。冷たかった自分の手も、歩くうちにいくらか温かくなっていた。
 ネックウォーマーに閉じ込められた自分の体温に首回りをうずめながら、おれは星空を見上げた。ロゼも、星空を見上げた。ふたりして、冴える宇宙に星の群れがたくさんあるのを見た。そして、冬の真ん中を、宇宙の真ん中を歩いて行った。

 BACK 
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -