冴ゆる宇宙に

1.深雪  
2.孤独の星
/.あとがき


深雪

 雪が、昼から静かに降っていた。おれがピアノ部屋を訪ねたこの今も、部屋の窓から雪が降っているのが見える。
 ロゼはその窓のそばに立って、雪景色を眺めていた。おれがドアを静かに閉めると、ロゼは顔を上げ、頬にかかった薄青の髪をゆっくりと払う。その仕草が、なんだか疲れているように見えた。顔色も良くないように思える。
「こんにちは」
 ロゼは少しだけ微笑んだ。
「……ああ、」
 ここへ来たのは、いつもの通り、ロゼとピアノの練習をするためだった。最近は、バッハのインベンションの中の一曲を練習していた。バッハの曲は近代とは毛色が違って難しいんだよなとか思いながら、ピアノに近づいて支度をし始めると、ロゼは言った。
「今晩、ちょっと実家に帰ることになりました」
 おれは少し驚いて、ピアノの譜面台を起こす手が止まる。ロゼはピアノのそばの椅子に腰掛けて、その白い手を自分自身で握りしめていた。
「何かあったのか、」
「なんでもない、です」
 へへ、と息混じりにロゼは笑った。自分もそうだが、ロゼは『なんでもない』と言うのが下手だ。自分から話し始めておいて、何かしらあるだろうに、なんでもないと笑うのだ。その笑顔には明らかに『何かがあった』と書いてある。たぶん、詳しく話したく無くても、なんとなく感じ取って欲しいのだろう。
 さみしかった。なんでも打ち明けてくれるとは思っていないが、ロゼはおれの前で何かをしまっておこうとした。いつもふたりがいいとは思っていないし、ひとりになりたいときもあるだろう。そう分かっているのに。
「そうか」おれは譜面台をそっと倒して、ピアノ椅子に座った。「無理に話さなくていいし、……疲れているのなら、もう今日は終わりでもいい」
 言葉を選んで、慎重に話したつもりだが、ロゼは俯いて黙ってしまった。しばらく、沈黙だった。雪のかたまりを背負っているような重い空気だった。おれはどうしようか迷ったが、結局、椅子から立った。「ロゼ」
 すると、ロゼはおれの腕をつかんで引き留めて、立ち上がった。
「待って、行かないで」
 そう言ってロゼは泣き出した。俯いたまま泣くので、薄青の長い髪がはらはらと肩からこぼれた。おれも泣きそうになった。ロゼを見ていると、なぜ自分もこんなに苦しくて、なぜ見知らぬ誰かの黒い手に心臓をぐっと掴まれているのか、わからなかった。
「行かない」
 おれはそう言った。うう、と声を押し殺してロゼは泣いた。どちらともなく、おれはロゼの細い肩を抱き、ロゼは泣きながら抱かれていた。
 ロゼの肩越しに見る窓から、雪が降っているのが見えた。ちらりとロゼの泣き顔を見たが、ロゼのまつ毛が濡れていて、いや、濡れすぎていて、すぐに窓の雪に目線を変えた。雪はロゼの心を満たしてはくれない。おれが何か言っても、たぶん、この雪と同じになるだろう。ただ降り積もるだけだ。くやしい。ロゼが泣いているのをそばで見ているだけで、何もできないなんて。胸の奥が、うっとなって、苦しい。
 ロゼは黙って泣いていた。その間、たぶん、外に雪が零点数ミリ積もった。
 しばらくして、ロゼの泣き声は、すん、すん、というものに変わった。だいぶ落ち着いてきたようで、ロゼは顔を上げた。おれもロゼの顔を見た。赤い頬が涙で濡れに濡れていて、今にも氷が張りそうだった。
「実家から電話があって、妹が――亡くなりました」呟くようにロゼは言った。「亡くなる時、わたし、そばにいてあげられなかった」
 潤んだ目で、ロゼはおれを見上げた。
「ウェルさん、……泣いてる」
 鼻声でロゼは言った。ロゼは手を伸ばして、手の甲でおれの頬を拭った。ロゼの白い手は冷たかった。さっきまでべちゃべちゃに泣いていたのに、おれが少し泣いてしまったことなんか気にするから、おれはもっと涙が出てしまって、ロゼの指をもっと冷たくしてしまった。
 ロゼの体温を確かめるように、おれはロゼのもう一方の手を握った。雪は降り続けて、降り続けて、ただ降り続けるのみだった。

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