おぼえていてね


まわる

「メルト、今度の週末、空いてる?」
「空いてるよ」
「じゃあ、一緒に出かけましょう」
 ヴァレちゃんと、某美術館で開催されてるドガ展に行くことになった。正直、ドガって人名なのか絵のジャンルなのかよく知らないけれど、ヴァレちゃんと行けるならあたし、どこへでも行く。
 その美術館は街中にあって、着くまでに二回電車を乗り換えた。都会の雑踏の中、あたしはヴァレちゃんにぴったりついていった。あたしは背が低いから、何度か背の高い人とぶつかりそうになったけど、ヴァレちゃんの足取りは、すれ違う人々と同じように素早く機械的だった。たぶん、ヴァレちゃんはその美術館へ行くのに、こういう道を歩くのに慣れているのだろう。涼しい顔を、していた。
 ヴァレちゃんとの美術館デートは三度目だった。一度目は、館近くの湖畔にある美術館で現代美術を鑑賞した。二度目は、南方へ旅行に行ったときに、写真展を見た。いつもヴァレちゃんは涼しい顔をしていた。作品に感動している風にはあまり見えなかった。でも、ヴァレちゃんって、そういう人だから。あんまり顔色が変わらないの。
 今日もそうだ。ヴァレちゃんは、瞬きするときに静謐そうな睫毛をほんの少し揺らすだけで、口を一文字に結んでいた。涼しい顔だ。あたしが横にいても、ドガの絵――さっきパンフレットをもらったけれど、ドガって人名なのね――を見ていても。
 ヴァレちゃんのそういう顔には慣れていたし、もう三度目だから、ヴァレちゃんとの美術館デートの勝手も分かっていた。ヴァレちゃんもあたしも、お互いのことはあんまり考えすぎないで、各々で作品を鑑賞する。でもなんとなく、お互いが展示室のどこにいるかを認知しておく。なんとなく呼吸があったときに、次の展示室へ行く。それだけ。
 あたしは美術を全然知らないけれど、なんとなく絵を見るのは苦じゃなかった。輪郭線のないドガの絵はおもしろかった。回想するときに脳内に流れる映像の純度に似ていた。今この瞬間はすぐ移ろう。記憶は風化してだんだんと細部を忘れていく。ドガの写し取った瞬間は、あたしがこの絵を見ている時点で、もうずいぶん昔のこととなってしまった。だから、ドガのこの筆跡の残るタッチは「過去」を写し取るのにふさわしいような気がする。
 そう考えながら、ドガの絵を見て回った。最終展示室、『エトワール』を見終わったときにふと、あたしは後ろを振り返った。なんとなく、ヴァレちゃんがいると思って。
 でも、ヴァレちゃんはいなかった。あれ、と辺りを見回していると、おばさんとぶつかった。おばさんにじっと、ちくちくする視線を向けられた。あたしは肩を竦めて、『エトワール』の前から離れた。展示室の真ん中にはふかふかした低い椅子が何脚かあって、あたしは一番端の方の椅子に座った。もう一度この展示室内を見渡したけど、ヴァレちゃんと思しき人は見当たらない。立ちっぱなしだったから、足は結構もう疲れちゃって、もう一度立ち上がってヴァレちゃんを探しに行く気力は湧かない。
 座ったまま、『エトワール』を遠くから見やった。『エトワール』の前を、おばさんが、おじさんが、お姉さんが、お兄さんが、おばあさんが、おじいさんが、子どもが、鑑賞しては通り過ぎる。こうやって、美術館はまわってるんだ。時が螺旋階段を上るように進むみたいに。
「メルト」
 後ろから声がした。あたしは振り返った。ヴァレちゃんが涼しい顔をして立っていた。ああー、と、あたしは、軽く口を開けた。
「全然見つからないから、どこ行っちゃったかと思った」
「ごめんなさい、お手洗いに行ってたの」
「なんだ」
「お別れかと思った?」
 今日初めて、ヴァレちゃんがちょっと笑った。嫌な冗談を言うもんだ、と思って、あたしもくすっと笑った。
「そんな、――」
 ――ことあるわけないでしょ、と、言いきれなかった。もしかしなくても、いつか、お別れなんだった。瞬間に、いろいろなことを考えた。
「あなた、もう見終わった?」
 うん、と、生返事した。すると、ヴァレちゃんがゆるやかに歩き始めた。立ち上がったあたしは、待って、とヴァレちゃんの袖を引っ張った。
「ねえ」
 いろんなことを考えてたときは、さっきまでは、ここでキスしてって言おうと思ってた。なんか、いつかお別れって思うと、こういう、デートとか、そういうポイントポイントで印を刻みたかった。でも、その言葉を続けられなかった。恥ずかしいとか、そんなんじゃなくて、いざとなるとなんだかこわくなった。考えてみたら、キスをせがむなんて、終止符を自分から打ちにいくみたいだ。蓄音機のレコードを、螺旋階段上に続いていく時間を、運命を、止めに行くみたい。
 だからあたしは、あたしからキスをした。あたしからヴァレちゃんのくちびるの味をたしかめた。
「……どうしたの」
 涼しい顔して、ヴァレちゃんは言った。
「うーんと、忘れちゃった」
 あたしはにい、と笑った。どうしたの、なんて、答えてあげない。ひとつひとつを覚えられないくらい、覚えていられないことであなたが後悔するくらいキスをしたい、なんて、教えてあげない。あなたはこのキスを忘れちゃうの、そんな涼しい顔してて大丈夫なの、とか、言ってあげない。運命を、時間を、螺旋階段を上るのを、蓄音機のレコードを止めてさいごに全部壊すのはあたしじゃなくてあなたなの。
 軽く手を繋いで、あたしたちは一緒に展示室を出た。あたしたちはまた、螺旋階段を一段上った。
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