おぼえていてね


ぬくもり

 雨の日って、ほんとやだ。髪うねるし広がるし、外に出ると、傘をさしててもちょっとは必ず濡れちゃうし、どこへ行くにも億劫で、どうしてもつまんない日になっちゃう。
 でも、三日ばかり返却期限をすぎた図書館の本を見つけてしまった。今日は雨なのに。絶対外へは行きたくない。この本は明日返しに行けばいいかなと思ったのだけれど、滞納していることが雛伊さまにばれてしまって、とがめられてしまった。
「雨だから、今日はもう返しに行くのあきらめようかな、って……」
「明日も雨よ、今日返さないと明日も返さないでしょう、パァル」
「でもー」
「でもじゃない」
「じゃあ雛伊さまも一緒に来てください」
「なんで」
「じゃないと行かない」
 と、自分でもよくわからない駄々をこねた。でも、雨なのでしょうがない。駄々こねないとやってられないもん、と、口をへの字にした。よく意味がわからない、と雛伊さまは眉をひそめたけれど、なんだかんだ一緒に行ってくれることになった。
 図書館は、館から歩いて十分くらいのところにある。館の地下にも書架があるけれど、そろえてある本がめっちゃ多いっていうわけではないから、館の人が図書館に本を借りに行くことはよくある。まあ、よくあるとか言ってもあたし、本とかあんまり読まないんだけどね。滞納している問題の本も、本というか、ファッション雑誌のバックナンバーだし。
 ファッション雑誌をいれたトートバッグを濡れないように抱えて、雛伊さまと雨の中を歩く。横断歩道の信号機が赤だったので、あたしと雛伊さまは立ち止まった。ぱらぱらぱら、と、頭上の傘の上を雨が跳ねる。そんなに強くない雨だけれど、右足首が雨に当たって少し濡れていて、かゆい。雨って、かゆい。足首がかゆいと眉間もかゆくなってくる。やだな。
「雨、ほんといやだ」
 あたしは思わずそうこぼした。はあ、と、肩にかかったミルクティー色の髪の毛を払いのける。
「しょうがないじゃない、返却期限以内に返せなかったんだから」
 あやすように雛伊さまは言った。たしかに、まったくもってその通りなのだけれど、やっぱり雨のことを好きになれるわけではないから、あたしはむーんと肩を竦めた。
 と、くうん、と、寂しそうな鳴き声がどこからか聞こえた。ちょっと口をとがらせたまま、何気なく後ろを振り返る。すると、歩道の脇、アスファルトの裂け目の横に置かれている、雨に濡れてこげ茶色になった段ボールの中から、茶色い毛の子犬が顔を出した。子犬とばっちり目があって、あたしは思わず息をのんだ。子犬は首輪をつけておらず、段ボールには「拾ってください」と黒マジックで書いてある。
 ピッコ、ピッコ、と歩行者信号が青になったのを知らせる音が響いた。横の雛伊さまが横断歩道を渡ろうと歩を進めたのを、「雛伊さま」と呼び止める。
「どうしたの」
 花柄の傘と一緒に、雛伊さまが振り向いた。
「子犬が」
 あたしは段ボールを指さしながら、子犬に駆け寄った。チョコレートのようにつややかで蜘蛛の糸ほどに細い毛が、雨にたくさん打たれて、ぺちゃんこになっている。くん、と、もう一度、子犬はさみしそうに鳴いた。こんな雨で、もう六月とはいえ、きっと寒いだろう。あたしは少し、傘を子犬の方へ傾けてやった。ああ、あたしが飼い主ならこの子をショコラと名付けて、いっぱい抱いてあげて、撫でてあげて、ぬくもりをあげて、この子が生を全うするまで面倒を見てあげるのに。
「――かわいそうだけれど、行きましょう」雛伊さまは静かに言った。「拾ってあげることはできない、から」
 あたしはじっと子犬の目の奥を見た。子犬の飼い主だったひとは、この子を捨てたひとは、この透き通った瞳に映っていたのだと思うと、胸の奥にすうっと冷たい風が通った。
「ほら、」
 あたしは雛伊さまに肩をとんとんと叩かれて、ようやく子犬の前を離れた。青信号はもうちかちかしていて、あたしと雛伊さまは靴を雨にぱしゃぱしゃ言わせながら、横断歩道を小走りで渡った。かすかに、くーん、という子犬の声が聞こえたけど、聞こえないふりをした。
 図書館から帰ってから、あたしはそのチョコレート色の毛の捨て犬のことがずっと気がかりだった。その次の日も雨は降ってばかりだったけれど、適当な理由をつけて外へ出て、雛伊さまには黙ってあの交差点まで見に行った。何もしてやれなくても、ただあたしは、あの瞳が忘れられなかった。透き通っていて綺麗なのに、ぬくもりのない、あの子犬の瞳が。
 ぱしゃぱしゃ、といくつもの水たまりを越えると、交差点に行きついた。道の角を見ると、「拾ってください」と書かれたあの段ボールが空だった。あれ、と思った。あたしの持つ傘がぐらっと揺れた。
 と、キイッとつんざくような音がした。ひっと肩を縮めながら音のした方――車道の方を見た瞬間、どっと鈍く軽い音がした。チョコレート色の濡れた毛の子犬が、雨の中、宙に浮いていた。
 子犬をはねた自動車が停止線を越えたところで止まった。中から女性が傘を差さずあわてたように出てきた。あたしは呆然と歩道のガードレールの内側で突っ立っていた。雨の降るアスファルトの上の子犬の首がねじれていて、胴体があっち、顔がこっちを向いていた。あの、ぬくもりがなさそうだった、綺麗だった、透き通っていた瞳が、こっちを向いていた。
 もう二度と、ほんとうに、あの瞳がぬくもりを持つことはないのだ。雨の音が激しく傘に響いた。あたしは唾も飲み込めなかった。
 その夜も、雨が降り続けていた。雛伊さまの部屋のちゃぶ台で図書館から借りてきた花畑の写真集を眺めていると、うとうとしてきて、あたしは瞼を閉じかけた。けど、まなうらに、あの子犬の瞳が強く浮かんで、あたしははっと目を覚ました。
「パァル、少し顔色悪くない?どうかしたの、」
 ちゃぶ台の向かいにいた雛伊さまが、本から顔を上げてあたしのことを見た。雛伊さまの緑の瞳があたたかくて、あたしの心の奥のやわらかいところから、何かがこみあげてきて、あたしは写真集に涙を零した。
 雛伊さまが手を握ってくれて、背中をさすってくれた。あたしは、まなうらにこびりついた瞳を消し去るように、手の甲で涙をぬぐった。今日から、あたしはあの瞳に生かされることになるのだ。
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