おぼえていてね


まなうら

 忘れられない人がいた。忘れたくても、どうしても駄目だった。忘れたいと思えば思うほど、心のスクリーンに強く焼きつく。
 やわらかなオレンジの照明に包まれた夜の書架、王座のような赤い椅子に座ったまま目を閉じた。まなうらに、あの人がいた。あの人の微笑みがある。すぐにわたしは目を開けた。膝の上でページを開いたままだった『エミール』を閉じた。
 ふと、ソファを見やると、適当に本棚から取り出した地図帳をめくっていたはずのメルトがいつのまにか横になって眠っていた。わたしは頭を振って、あの人のことではなくて、メルトのことを考え始めた。ああそうだ、メルトにタオルケットでもかけてあげよう。
 眠っているメルトをひとり残して、わたしはリネン室に行くために地下室を出た。夜の一階の廊下は、まだ消灯時間ではないものの静かだった。
「あら、ヴァレーニエさん」
 後ろから声をかけられた。振り返ると、雛伊がいた。「何をしに地上へ出てこられたんです」と言って、ちょっと笑っていた。
「そんな、地底人みたいに言わないで頂戴」わたしも思わず口角をあげた。「タオルケットを取りに来たの」
 そう答えると、彼女は少し目を丸くさせる。
「奇遇ですね、わたくしも」
 わたしも目をぱちぱちさせた。
「もしかして、いつのまにか誰かお眠りになって?」
「ええ」
 きっと、雛伊のところではパァルが眠っているのだろう、と思った。そして、わたしのそばでメルトが眠ってしまったのだろう、と向こうも思っているのを感じた。
 そのようなめぐり合わせで、わたしたちはふたり、館の一階にあるリネン室へ向かった。リネン室と言っても、宿泊施設にあるような大層なものではなくて、館の人で共有できる替えのシーツやタオルケットなどを少し置いてあるちょっとしたスペース。行くと、人は誰もいなかった。ぱち、と電気を点けると、棚にバスタオルや枕カバーが積んであるのがわかった。
「タオルケット、これかしら?」雛伊が、棚から白いバスタオルを手に取った。「ああこれ、バスタオルだ」
「こっちがタオルケットみたいよ」
 わたしは棚からタオルケットを二つ取って、一つを雛伊に手渡した。ありがとう、と雛伊が受け取った。用は済んだので、わたしたちはすぐにリネン室を出た。ぱちん、と電気を消すと、リネン室の小さな窓から溢れた夜の闇で部屋は満たされた。
 特に会話のないまま、廊下を曲がったところで、ああ、と、雛伊が眉根を寄せた。「思い出さなきゃよかった」
「どうかしたの」
「さっき手に取ったバスタオル、間違えてタオルケットの棚に置いてしまったような気がして」
「それは、一旦気になると嫌ね」
「戻らないと……」
 嫌そうに頬を引きつらせている割には、戻らないとむず痒いとでも言うように肩を竦めていた。タオルケットを抱えたまま、彼女はくるりとリネン室の方向へ体を向けた。じゃあ、と言われそうになったとき、あ、と思って、わたしは早口に尋ねた。
「貴女、思い出したくないことって、どうやって忘れてる」
「……そういうのは、別のことで塗り替えちゃうんです」
 雛伊はちょっと考えてから、少しいたずらっぽく笑った。パァルがときどき見せる笑顔に似ていた。「まあ、そうやって忘れられたことはあまりないですけれど」
 では失礼、と小さく礼をしながら雛伊はリネン室へと戻って行った。わたしはその後ろ姿をちらりと見て、また歩を進めた。
 地下室への階段を降り終わると、点けっぱなしだった電灯の光に包まれた書架へ入る。やはり、メルトはソファで眠ったままだった。背もたれの方へ体を向けながら、長い黒髪を惜しみなくソファに広げて、くしゃくしゃにしている。薄いブルーのタオルケットをふわりと被せてあげると、うう、とメルトは寝返りを打った。
「ヴァレちゃん、」
 起きたのかと思って、はっと手を引っ込めた。しかし、メルトは目を閉じたまま、静かな寝息を立てている。やけにはっきりした寝言のようだった。今、彼女のまなうらにはわたしが映っているのだろう。わたしも少し、目を閉じてみた。まなうらには、つい先刻まで見ていたメルトの寝顔が映っていた。ゆるく閉じた瞼と赤いくちびる。その顔を強く焼きつけたくて、もっとかたく目を瞑った。もし彼女をなくしても、これだけは、この顔だけは思い出せるように。
 わたしはおもむろに目を開けた。心のプロジェクターが映したままのメルトがそこにいた。ほう、と息をついた。
 と、なぜか、眠っているメルトのくちびるの端がゆっくり上がった。そして、あの人のように微笑んだ。
 わたしはそれを見ながら、王座のような赤い椅子に腰かけた。置きっぱなしにしていた『エミール』を手に取る。一時間ほど前、「またその本読んでるの」と彼女に言われたことを思い出した。「何度でも読み返したい本なの」と答えたことも思い出した。
 スクリーンに映されたスライドが切り替わって、あの人の顔になった。わたしはメルトの寝顔を見つめた。やわらかなオレンジの灯りに包まれて、静かな夜だった。
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