あなたは光る風
02 行こう


 煙羅さんが昨日、館を出ていきました。最近、煙羅さんの部屋の前に段ボールが積んであるなあと思ったら、昨日の昼、誰かから借りたらしい薄汚れた軽トラックに荷物を積んで、「じゃ、」と軽く手を降って行きました。派手なものが好きそうですから、煙羅さんが出ていくときは盛大にお別れパーティでもするのかと思っていましたが、まったくそんなことはなく、部屋を吹き抜ける春の初めの風のように、ひょいといなくなりました。
 煙羅さんと特に関わりはないのですが、どちらかといえば騒がしい人でしたから、彼のいなくなった今日、この廊下はいつもよりは静かな気がします。やわらかな日差しが廊下の窓から絨毯へと落ちていて、もうわたしは分厚いコートを着こむ必要はありません。
 すこしだけ静かな館のはじっこの物置に、わたしは魚のえさを取りに行きました。応接室の水槽のプラティにあげるためです。このプラティ、えさやりの時間になると水面の近くをちろちろと泳いでまわって、とてもかわいいのです。えさが置いてある棚の横にある、えさをやった日時とえさをやった人を記入する紙に『3/×× 10:00 ロゼ』と記入して、えさの袋を片手に持ちます。今年のえさやり当番はわたしとココさんなのですが、ほぼわたししかやっておらず、紙に『ロゼ』の2文字がずらっと並んでいて、わたしはふふ、とわらいました。
 わたしはちょっと弾んだ気持ちで、応接室へ行きました。プラティたちが今、えさを待ちながら泳いでいるかと思うと、楽しくなるのです。応接室のドアを開けると、そこには誰もいませんでした。でも、プラティが、本棚の横の水槽にいます。
 今日もプラティは、オレンジや白のひれをなびかせながら、水槽の中を泳いでいました。待って、今、えさをあげますから。口には出しませんが、わたしは心の中でそう語りかけて、水槽をのぞきこみました。
「あ、……」
 それを見て、思わず口を半分開けました。頭は白く、尾びれは真っ黒な一匹のプラティ――わたしが勝手にカシスと名づけ、かわいがっていたプラティが、砂利を敷いた水槽の底にぐったりと沈んでいるのです。目の輝きを失って、口をぱっくりと開けて、死んでいるのです。急に、館がひどく静かに思えました。
 他のプラティは、えさはまだかとはやすように泳いでいるのに、カシスだけが沈んでいる水槽。その前で、えさの袋を抱えながら、わたしはしばらく立ち尽くしていました。

「――ロゼ?」
 はっとして、呼ばれた方を振り向きました。ドアの前にウェルさんが立っていました。ウェルさんはこっちへ来て、さっきまでわたしがしていたように、水槽をのぞきこみました。やっぱりそこではまだ、カシスがひっそりと砂利に横たわっています。
「こん、にちは……」
 わたしは詰まり詰まり、言いました。
「もう、寿命か」
 ウェルさんはひんやりとした鋭いまなざしをカシスに注いでいます。ああ、やっぱり、死んでしまったんだ。どんなに大きな生き物にも、どんなに小さな生き物にも、等しい大きさと重さで死はおとずれる。そうわかっていても、カシスは昨日まで元気に泳いでいたのに、と思わざるをえないのです。
 わたしはぎゅっと奥歯を噛みながら、えさの袋を開けました。
「待て、死体を取り出して、水を組み替えてからでないと」
 ウェルさんの声に、わたしは顔をあげました。わたしの目はうるんでいたけど、ウェルさんがはっと目の奥を曇らせたのがわかりました。
「――水槽の処理をしたら、散歩にでも行こう」
 わたしはゆっくり、うん、と頷きました。そっと目尻を撫でると、指がきらきらしました。ふうと息を吐いて、も一度、ウェルさんの顔をまっすぐ見ます。
「バケツと網、取ってきますね」
 ああ、とウェルさんが返事したのを聞いてから、また物置へ向かうため、応接室をあとにしました。

 カシスを網ですくってバケツに取り出して、明日、生ごみとして出すことにしました。砂利を入れ替えて、水槽の水も汲み替えると、わたしたちは散歩へ行きました。外は三月にしては暖かく、薄いシャツを着ていても十分快適に過ごせるくらいです。日傘を持ってくればよかったな、と思うくらいに、空は晴れ晴れとしています。
「もう、三月なんですね」
 そんな呟きが、野原を吹いていく春風とまざっていきました。ゆっくり歩いているからか、草の波が速く思えました。波はどんどん、野原の端の方へ、端の方へと伝わっていきます。どこまでも遠くに。ここじゃない遠くに。
「三月は嫌いか」
 ウェルさんはそっと言いました。わたしの隣を、わたしの歩幅に合わせて歩いてくれています。
「……あんまり、好きじゃないです」わたしは地平線を見やりました。あの向こうの景色をカシスは見ることができなかったんだ、と、ちらり、思いながら。「お別れが多い時期ですから、」
 それからは喋らずに歩きました。館から、三月から、いのちの重さから逃げるように、黙々と。するとだんだん、川が見えてきました。やがて、野原の小道が川沿いの遊歩道にぶつかる地点に来ました。遊歩道に沿って、桜が植えられています。右手から左手へゆったりと流れる川に、向こう岸にも植えられている桜が映りこんでいました。
「金曜頃から満開になるらしいな」
 桜を見上げながら、ウェルさんが言いました。その横顔を見て、わたしは、あ、とあることを思い出しました。願うように、祈るように、わたしはウェルさんを見上げました。
「あの」
「どうした」
「金曜日、またここ来ましょう、桜を見に」
 ぱち、とウェルさんは瞬きをしました。その瞬間だけ、風がふわりと止みました。わたしも瞬きをしてみました。願うように。祈るように。
「ああ、――ロゼの風邪も、とっくの昔に治っているしな」
 ウェルさんはちょっとほほえんで、そっと右手を出しました。ああ、やっぱり、ウェルさんは約束を覚えてくれていたのです。きっと、逃げようと思ったら、ウェルさんは、一緒に逃げてくれる。おしまいのときは、手をつないで、行こうと言ってくれる。
 わたしは、ウェルさんの右手に自分の左手を重ねました。川の水面も、野原の草も、桜の枝も、わたしの髪も、ウェルさんの髪も、ひとがひとりいなくなった館も、そしてカシスの死も、皆等しく、春風に吹かれていました。

三月が来るから薄いシャツを着て傘をたたんで逃げてしまはう / 西田政史



PREVNEXT


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -