あなたは光る風
01 おしまい


 ストーブを焚いてある室内にも関わらず、今日もロゼは分厚いダッフルコートにくるまっていた。寒いのが大の苦手、らしい。寒さゆえだろうか、頬をやや赤く染めている彼女は、手をこすり合わせながらピアノの横の椅子に腰かけた。
「今日も寒いですね……」
「昼から雪が降るらしい」
「ほんとですか?うれしい」
 うれしい、と、ロゼは薄い青の髪を揺らして、ピアノ部屋の窓へ向いた。裸になった木の枝が時折風に震え、空は灰色の雲で埋まっており、外はいかにも寒そうだ。明日頃、雪が降り終わったら、頬と耳が凍りそうになりながら雪かきをせねばならないだろう。そう思うと、雪が降ってうれしい、という気持ちにはあまりなれなかった。もっと幼い頃は、雪で遊べると思って、雪が降るとうれしかったような気がするのだが。
「外に出られるのか、寒いの、苦手だろう」
「あまり出られないけど、雪で楽しそうに遊んでるひとを見てるのが好きなんです」
 と、彼女ははにかんだ。まあ、はじめましょう、とロゼが言って、おれは楽譜を開いた。

 レッスンが終わった頃には、もう、部屋の窓には雪がちらついていた。予報より早めに降り出したようだ。ふと、おれは、今季雪が降った回数を頭の中で数えた。たしか十二月に三回、一月に二回とか、そんな程度だった気がする。今はもう二月中旬だが、今日の雪が今月初の雪だ。
「今年は雪が少ないな」
 がしゃん、とガスストーブの火を消しながら、おれは呟いた。
「そうなんですか?館の冬は今季が初めてだから、」
 ピアノカバーをかけながら、ロゼは窓の向こうを眺めた。たしかに、ロゼが館に来たのは、去年、雪解けが始まった頃であった。病弱だから、自然の多いところで療養しに来たのだと言っていた。あのときはおれよりとても無口な印象を受けたが、今は、彼女はふたりきりだとよく喋るということを知っている。
 ロゼは窓辺に立って、ふわふわ、冬の桜のように降る雪をじっと見ていた。おれは、それが、少年のように見えた。等身大の彼女、と言えばいいだろうか。病気だったり、心配事だったり、憂鬱なことだったりをきれいに取り去ったら出てくる、彼女の一番まっすぐなところだけを携えて存在している、というか。
「わたし、雪、さわってみたい」
 と、振り向いてロゼは言った。やっぱり、目が、まっすぐだった。
「ごはん食べたら、一緒に出ませんか、外」
「構わないが――風邪をひいてしまうんじゃ」
 おれはわずかに眉を曇らせた。療養のために館へ来たのに、館で風邪をひいては元も子もない。館へ来てからは大きく体調を崩したことはあまりないようだが、それでも心配だった。
「大丈夫ですよ、たぶん」
 ロゼはそう言ったので、まあいいか、と思うことにした。

 昼食後、おれたちは、玄関で待ち合わせた。おれはコート、保温インナー、防水手袋、スノーブーツ、とそれなりに寒さをしのげる恰好をしてロゼを待った。待った、と言っても、すぐにロゼは来た。誰かから借りたというスノーウエアを着、帽子と耳当てをして、かなり暖かそうである。
 じゃあ、行きましょう!と、元気よく彼女は外へ出た。おれも続いて外へ出てドアを閉めようとしたら、急に強い風が吹いて、ばたん!とドアが閉まる。
「なんか、結構、寒い……」
 ひい、と彼女は自分の耳当てを抑えた。雪はそこそこ積もり始めていて、風は無風ではない。
「戻るか」
「ううん、大丈夫です」
 ひえー、と、歓喜のような悲鳴のような声を小さくあげつつ、彼女がとたとたと階段を降りて行く。
「このきゅっきゅって音、とても、いいですね」
 そう言って、階段を降りた先で、きゅ、きゅ、と軽やかにジャンプして雪を踏みしめた。あ、ジャンプしてたらあったかい、なんて言って、そのまま飛び跳ねている。
「ねえ、ウェルさん、はやく、」
 そうはやされたので、ポケットに手を突っ込んで肩を縮めていたおれも、玄関前の階段を降りた。
「わたし、昔から、雪だるまを作ってみたかったんですよ、あれ、どうやって作るんですか?最初はこのくらいの雪から作るんですか?」
 ロゼは地面の雪をすくった。なんだかロゼはとてもはしゃいでいた。おれは若干気おされつつ、「あ、ああ、」と答える。
「こうやってぎゅっぎゅって?」
「一個雪玉を作ってから、雪に転がしていけば大きいのがいつかできる」
 やってみます、と、ロゼは地面にかがんで雪玉を作り始めた。ロゼの頬と鼻はもう赤くなりはじめていた。はしゃぎすぎて風邪を引かないでほしいが、あんまり楽しそうなので、おれも横で雪玉を作ることにした。

 雪だるまを一体作った後、ロゼは雪うさぎを作ったり、まだ誰の足跡もついていない雪の上を歩いて回ったり、雪遊びをすると外へ出てきたあられやバンの相手をしたりして、ずいぶん長く外へいた。その間、おれはガレージの掃除をしていた。ガレージのシャッターを開けっぱなしにしておけば、ロゼたちが何事もなく遊んでいるのを見ることができた。
 さすがに、十五時の三十分前には館に戻った。おれもロゼもすっかり鼻が真っ赤だ。はあ、と帽子と耳当てを取りながら、ロゼは笑った。
「ああ、楽しかった」
「そんなにか」
「雪遊び、初めてだったから」
 そうか、と、おれは返事した。「今日はすぐに寝れちゃいそう」なんて、ふふ、と彼女は赤い頬を緩ませた。
 玄関先でロゼと別れ、いつもの服に着替えた後、おれは戦争に出た。結果は、もちろん、紅茶が勝った。ただ、ロゼは来ていなかった。まあ、あまり戦争の出席率が高くない彼女だし、あんなに外ではしゃいでいたから、昼寝でもしているのかもしれない。
 しかし、夕食の食堂にも彼女は来なかった。たまたま隣の席にいたリクに、ロゼを見なかったかと聞くと、知らないと言われた。
「部屋に呼びに行ってみればいいじゃん」
「――後でそうする」
 ふーん、とリクは適当な返事をして、おれの方じゃなく、隣の女子の方を向いて喋り始めた。おれはちょっと溜息をついて、椅子をひいて座りなおした。
 夕食を食べ終わってもロゼは来なかったので、彼に言われた通り、おれはロゼの部屋をたずねた。ノックをして、「ロゼ」とドアに向かって言う。へくしゅ、と咳のような音が聞こえて、「はい、」と彼女の声がドアの向こうからした。おれはいやな予感がして、眉間にぎゅっと皺が寄る。少しドアが開いて、ロゼが顔をのぞかせた。顔がいつにもまして青白く、元気が無さそうというのは一目瞭然だ。
「昼寝して起きたら、風邪、ひいちゃったみたいで――」
 へら、と、ロゼは力なく笑って、羽織っている厚いストールをきゅ、と抱きしめた。おれは、ぎゅっと奥歯を噛んだ。ごくりと喉の奥が鳴って、感情に任せた言葉か何かが出てこようとしたが、深呼吸をして抑える。なるべく落ち着いた声で、「熱は」と聞いた。
「37.7℃くらい」
「寒気は」
「けっこう、あります」
「鼻水は」
「さらさらのが、……」
「咳は」
「たまに」
「吐き気は」
「今のところないです」
「食欲は」
「あんまりない……です」
「しょうが湯でも飲むか」
「……お願いします……」
「すぐ持ってくるから、暑いと思うくらいに暖かくして寝ておけ」
 はい、と弱弱しくロゼは言った。それがなんだか、館に来たばかりのロゼのように見えた。
 歯ぎしりしたいのを抑えて、おれは台所に飛んでいった。皿洗い当番がシンクを占領していたが、その横でしょうがをすりおろし、はちみつとレモン汁、片栗粉も少々用意する。それらを小鍋に入れ火にかける。ぼうっとコンロに火を点けると、おれはひどく小さく呟いた。
「ばかか」
 体が寒さに強いわけではないのに、雪で遊んではしゃいで風邪をひくなんて、ばかか。大丈夫、と彼女が言ったから、まあいいかと雪遊びに付き添ったおれもだ。ばかか。ばかか、と心の中で言うごとに、ふつ、ふつ、と鍋底から泡が出ては消えた。
 そうしているうちに、しょうが湯がひと煮立ちしたので、マグカップに移し替える。冷蔵庫にあった名前の書いてないぶどうゼリーを誰のでもないと見なし、適当な盆にマグカップとスプーンと一緒に置いて、持っていくことにした。
 またロゼの部屋のドアを叩いた。「ロゼ、ウェルだ、開けるぞ」
 ちら、と中を覗くと、ドアを開けてすぐのベッドで横になっていたロゼが体を起こしていた。「あ、ありがとうございます……」「しょうが湯、どこに置けばいい」「えっと、――ここがいいです」ここ、と、ロゼはベッドの横の低いキャスケットの上を指さした。
 おれは部屋にそろりと入って、盆ごと指定された場所に置く。じゃあ、と踵を返そうとしたが、あ、待って、と呼び止められた。
「ちょっとだけ、いてくれませんか」

 ぶどうゼリーを食べた後、ロゼはしょうが湯を飲んだ。温かいのがとてもおいしく感じるのか、すぐにマグカップの中身を飲み干してしまった。おいしかったです、と、ほうと息をつきながら。ロゼのベッドの横の椅子に腰かけていたおれも、俯きながら息をついた。おれのは、はあという溜息だった。
「……風邪を引くかもしれないから、外へ出るのはやめておけって言ったのに」
「『外へ出るのはやめておけ』とは言われてませんよ」
 むっとして顔をあげると、へへ、とロゼが笑っていた。
「いやだなあ、ちょっと、言ってみたかったんですよ」いたずらっぽい笑みを浮かべていたロゼだったが、だんだん眉が下がってきて、苦笑いのような笑みに変わる。「ごめんなさい」
 その笑顔に、おれは少しどきりとしてしまった。ああ、ロゼは、そういういやな冗談を言うタイプじゃない。そういうのは、おれの方がよく言うのに。どこかこわくなって、かけ布団の上のロゼの手を握った。冷たい。びっくりするほど冷たいわけではないけれど、手を雪にまぜてしまったらすぐに分からなくなりそうだった。もしかしたら、この手は、雪と一緒に解けてしまうのかもしれない、なんて。
「ウェルさん」
「なんだ」
「しばらく、このままがいいです」
 そっと、ロゼがおれの手を握り返した。わかった、と言う代わりに、おれは頷いた。
「それから」
「なんだ」
「この星がおしまいを迎えるときも、手を繋いでいてほしいんです」
「わかった」
 約束ですよ、と言うみたいに、ロゼがちょっとほほえむのが見えた。
 それからロゼは、咳をした。おれは彼女の背中をさすったが、言い換えれば、背中をさすることしかできなかった。咳がおさまったあとも、彼女の背中を見つめていると、この星に流れる時間がおわりにしか向かえないように、雪はいつかとけてなくなってしまうように、彼女の人生も、おれの人生も、いつかおわるのだろう、と思った。
「約束する」
 おれはぽつりと言った。
「なにを、ですか?」
「おしまいのときも手を繋ぐということを」
 ロゼは顔を上げて、まっすぐおれを見た。おれも、まっすぐロゼを見た。お互いの視線が交わると、視線がレーザービームみたいに光っている気がした。
「その代わりに、約束してほしい」
「なんですか」
「もう風邪は引かないでくれ」
「……桜が満開になるまでに治しますから」
 そう言うと、ロゼの手がおれの手の中からするりと抜けて、ロゼは起こしていた体を全て布団に預けた。かけ布団にぎゅっと包まったロゼを見て、おれは立ち上がった。おやすみ、と言うとおやすみなさい、と返答があった。空のマグカップと空のゼリーの容器とスプーンを乗せた盆を持って、おれは部屋のドアノブに手をかける。
 すると、背後で、小さい声がした。
「でも、今日、雪で遊べたの、うれしかったです」
 はっとして、おれは振り向いた。もぞ、とロゼが布団から顔を出した。ベビーブルーの髪が雪のように、はらりと布団の上を滑る。
「そう、か」
 そう呟いて、おれはロゼの部屋を後にした。消灯時刻はまだ先だったが、廊下の窓の外はとても真っ暗だった。おれは今朝、ロゼがピアノ部屋でやったみたいに、おでこを押し当てるように窓の外を覗いた。真っ暗で何も見えなかったが、しんしんと雪が降っている気配がすぐ近くにあった。今、外はとても静かだろう。まあ、雪も悪くないか、と思いながら、おれは台所へ盆を片付けに行った。

この星に消灯時間がおとずれるときも手を繋いでいましょうね / 笹井宏之


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