そのとき


All's well that ends well; still the fine's the crown; Whate'er the course, the end is the renown. ――『終わりよければすべてよし』

×××

 影法師って、恋みたいだ。いくら追っても逃げてく。庭に大きく伸びるポプラの木の影を見ながら、柄にもなく気障なことを思う。たぶん、秋だから、しょうがない。
 僕は一番夏が好き。それゆえに、秋は一番嫌い。だって、秋が来たってことは、夏が終わったってことだ。頭上で揺れているポプラの葉の色は、もう緑が少し薄くなっている。向こうのあのカエデの木も、同じく緑っぽさが抜けてきて、夏に見た茂り様と比べると幾ばくか弱々しく見える。加えて、まだ四時なのに、だんだんと空が赤みを帯びてきた。日に日に夕暮れの時間も早まっていて、もう、初秋だ。
 はあ、と小さな溜息をつくと、スケッチブックの消しカスが少し動いた。僕はまた鉛筆を走らせて、カエデの木をスケッチする。せめて、まだカエデが生き生きとしているうちに、その生命力を目に焼き付けておきたかった。僕の画力が及ばないところはもちろんあるけれど、スケッチブックに写しておきたかった。スマホのアルバムとかじゃなくて、もっと、カエデの命と近しいところに、息づかいまでを閉じ込めておけるところに。
 ポプラの木の下に座って黙々と作業していると、ふと、やわらかく風が吹いた。僕は顔をあげた。ちょうど、こちらに向かって歩いてきていたらしいヴァレちゃんと目が合う。手には分厚い、がっしりした装丁の本を持っていた。長い髪を耳にかけながら、ヴァレちゃんは言った。
「隣、いいかしら」
 彼女の長い髪が、庭を抜ける風にそよそよとなびいている様は、僕もあまり見たことがなかった。僕は「勿論」と返事して、スケッチブックに鉛筆を置く。
「庭にいるなんてめずらしいね」
「外で読書ができる時期なんて今と春ぐらいしかないから、来てみようと思って」と、ヴァレちゃんは僕の隣に腰掛けた。「夏は暑いし、冬は寒いし」
「何か読むの?」
「旧約聖書」
「あれ、クリスチャンだっけ」
「ええ」
 ヴァレちゃんは、にこ、ともふふ、とも笑わずに、静かに喋る。僕は、彼女のあまり笑わないところが好きだ。あまり笑わない分、笑ったときにとても素敵に見えるのだ。僕の前であとどれだけ笑ってくれるのか、見当のつかないという点はさておき。
 彼女は本の栞のあるところを開きながら、ちらりと僕のスケッチブックを覗いた。
「それ、カエデの木?」
「うん」
「綺麗」
「――ありがとう」
 僕は笑った。秋は嫌い。木から葉が落ちていって、だんだんと枝があらわになっていく様が、なんともさびしい。冬に向けて、呼吸をだんだんと閉ざしていくようなところが、こわい。秋の先にやってくるであろう冬が、もし明けなかったら、あの木々は呼吸を止めたままだ。
 僕は読書中のヴァレちゃんの方を見た。ヴァレちゃんは黙々と本のページをめくっている。その顔の輪郭は、輪郭としての確固たる意思を持っていて、あらゆるものの侵害を許さず、それでいて世界に溶け込んでいて、儚げであった。僕は、その横顔に、聞いてみたくなった。
「ねえ――ヴァレちゃんは、ささやかな幸せが踏みにじられたらどうする」
「ささやかな幸せ?」
「そう」
 ヴァレちゃんは難しい顔をして、本に栞を挟んだ。ひとつ、秋風が通り過ぎた後、静かにヴァレちゃんは言う。
「わからない」ゆっくり、彼女はこちらを見た。「そのときになってみないと、わからないわ」
「じゃあ、もし僕が、ヴァレちゃんの幸せを壊そうとしているとしたら」
「そんなこと、あなたが――あなたがする筈がないでしょう」
 彼女は、はは、と柔らかく笑った。笑った、というか優しく苦笑いした、というか。すっと目を細めて、口角をふっと、わずかにあげて。なんでそんな優しいことを言うんだろう。だから僕はすがりたくなってしまうのだ。もっとしがみつきたくなってしまうのだ。リリィが昔はよく服に付けていた、川原の引っ付き虫みたいに。洗濯したばかりの布団を抱きしめるみたいに。窓を雨水が伝うとき、周りの水滴と一緒になってどんどん加速しながら落ちてゆくみたいに。アクセルを踏んだみたいに、僕の口から言葉が滑り落ちる。
「でも、もし、もしものそのときは」
「そのときは、そのときよ」
 でも、「そのとき」はきっと、永遠に来ない。ヴァレちゃんのまっすぐな眼差しで分かった。そんなこと、できたとしてもあなたは結局できないんでしょう、と言いたがっているみたいだった。「しないんじゃなくて、できないんでしょう」、と。たしかにそうなのだ。たぶん、絶対、できない。壊すことも、その反対も。僕は鉛筆を握りなおした。書き留められるものもないのに。
「踏みにじられても、どうするかはそのときのわたしが決めるわ、今のわたしじゃなくて」
 ヴァレちゃんは真っ直ぐ前を向いて、ゆっくり、言葉を選ぶ。僕は知っている。言葉を選ぶということは表現を吟味しているということで、それが思考結果の純度を高めることを。
「運命は星が決めるものではなくて、自らの思いが決めるものだから」
「じゃあ、やっぱりどうしようもないの?昨日、昨日――別れようだなんて」
 思わず僕がそう言うと、ヴァレちゃんは何か言いたげに口を開いたけど、やめて口を噤んだ。僕はいらだった。というか、口惜しくなった。うんもいいえも言わないなんてずるいと思った。そんな質問を問いかけたのは僕だけど。
「ごめん、ちがう」「ちがうじゃない、ごめん」言い直したけど、言いたいのはこんな中身のないことばじゃなくて、もっと、とげのないことば。でも口に出そうとすると、ことばということばが体中から消えていくみたいに、何も言えない。僕は口を閉じた。心ではこうしたいああしたいと思っているのに、身体はまったく反応してくれない。
 いえ、とヴァレちゃんは静かに返事した。「こちらこそ、邪魔してごめんなさいね。では、失礼」
 すぐに、ヴァレちゃんは本を閉じて立ち上がる。ちらりと振り返るような迷いは一切なく、彼女は庭の花壇の向こう側へ、そよ風と一緒に消えていった。――恋はまことに影法師。こちらが逃げれば追ってきて、こちらが追えば逃げていく。僕はスケッチブックに目を落とした。カエデの木がそこに閉じ込められている。なんで、僕は夏を追いかけすぎているんだろう。
 ぎゅっと鉛筆を握りこんで、スケッチブックを閉じた。夕方の涼しい秋風が僕の髪と頬を撫でた。僕は庭にひとり、息をしていた。
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