聖域


 Sine Cerere et Baccho friget Venus ――『宦官』

×××

 ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう、らしい。
 なら、あたしが今凍えそうになっている理由をだれか説明して――って、説明を求めたって、窓の外を見れば一目瞭然なのだけれど。
 今年の寒波はえらく酷くて、テレビニュースでは冬将軍のことばかり取り上げている。その寒波が昨晩、この辺一帯に雪をどかどか降らせて行って――ほら、窓枠のすぐそこまで雪が積もってる!朝になって、幸い今は晴れてるけど、こんな風に文字通り町は雪で覆われて、電車はおろか、車も動かせず、歩くのも危険。そんな今朝、館の灯油のストックが切れちゃって、灯油ストーブしかないここ・応接室は冷凍庫みたいに寒い。よりによって、なんで電気ストーブでもガスストーブでもなく灯油ストーブなのかしら。寒いったらありゃしない。
 寒くて凍えてるんなら部屋から出ればいいじゃんって思った?あたし、好きで凍えてるわけじゃないの。応接室のドアが開かないの。入るときにはなんだかドアノブの部分が動きにくいなと思っただけだったのに、出るときにドアノブを回してみたら、回るのに開かない。あたし途方にくれた。だって、応接室には忘れ物のペンを取りに来ただけだったから、部屋にスマホを置いてきちゃって、開かないドアの対処法をネットで検索することも、助けを呼ぶこともできない。一回ドアのそばから大声で「誰か!」って言ってみたけれど、口を開いた瞬間に冷気が口内に入り込んできて、それ以上助けを呼ぶのをあきらめてしまった。だからあたしはドアの前でじっと座り込んで、こうやってぎうと体を縮こめてだんまりを決めた。
 応接室の壁時計を見ると、閉じ込められてから二十分ほど経っていた。たったの二十分なのに、頬はひりひりするし、耳はちぎれてもおかしくないほどに痛い。館の廊下は寒いからある程度着込んではいたけれど、寒さがどんどんあたしを蝕んでく。やだ。やだよう。あたしはかわいいパァルちゃんなのだから、かわいいまま死にたい。鼻も頬も耳も真っ赤なまま死にたくないよう!寒さに鼻をさすると、ぐにゃりと絆創膏がはがれた。ぺりぺりだ。ああどうしよう、絆創膏と一緒に凍えてしまうなんていやだ。ねえ、ここは地獄?
「さむい……」
 あたしはぺりぺりの絆創膏をつまんだ手を床にだらんと下ろした。そのときだった。頭上のドアノブの方から、がちゃがちゃと音がした。
「やっぱり鍵がないのに開かないわね」
 ドアの向こうから女の子の声が若干くぐもって聞こえる。えーっと、あの人、名前、なんだっけ。やばい、頭が回らない。鼻下を鼻水が流れるのを、汚いけど手の甲でぬぐって、ああ、ああ、とめっきり役の立たない頭を無理矢理回らせる。ああ、ひとつ思い出した、そうだ、大好きな人――。
「お嬢様、ここは私に」
 男の人の声もして、またがちゃがちゃと音がする。最後にかちゃん!と音がひとつ鳴って、がちゃがちゃという音は止んだ。それと同時、背もたれにしていたドアが後ろに開いて、あたしはそのまま後ろに倒れる。「おい!」と燕尾服の男が叫んで、「パァル!」と黒髪の女の子が廊下の床に倒れこみそうなあたしを間一髪で抱きとめた。澄んだ深緑のその瞳に、あたし、やっと名前を思い出す。
「ひな、い、さま――」

 と、あたしがぱちりと目を開けると、なにやら上質な布団があたしの上に乗っかっていた。自分のベッドじゃない。あれ、と寝返りを打ってみると、そこは雛伊さまの部屋で、あたしは雛伊さまのベッドに寝ていた。
「起きたのね」
 雛伊さまはベッドのそばに椅子を持ってきて座っていた。雛伊さま、とあたしが体を起こそうとすると、「駄目、しばらく安静にしていなくちゃ」と咎められる。雛伊さまが「駄目」と言ったら譲ってくれないので、あたしは大人しく柔らかい布団にくるまる。
「なんであたし、雛伊さまのベッドに?」
「あなた、応接室に閉じ込められてるのを助けたら、出てきた瞬間に倒れて寝ちゃったから」
「……そうだったっけ」
 あんまりあたし、覚えてないや。ベッドのそばの時計をちらりと見るともう四時。いつから寝ていたんだろう。ああ、思い出した、忘れ物を取りに応接室に行ったら、なんかドアが開かなくって出れなくなっちゃってめちゃめちゃ寒い思いをしたんだったっけ。でもそれって確か午前中のことだし、あたし、かなり長い昼寝をしてたってことか。
「パァルの部屋に運んでも良かったんだけれど、こっちの方が近いからって、シャロに言ったの」
「そんな、雛伊さまのベッド借りるなんて悪いから、あたしの部屋で良かったのに」
「良くないわ」雛伊さまが、あたしの髪に手を伸ばした。雛伊さまのベッドに広がるあたしのミルクティ色の髪を、雛伊さまのうっすらとした桜色の指が撫でる。「良くないの」
 あたしはだまった。雛伊さまの瞳が、とても綺麗で。すっごく綺麗な、エメラルドみたいに繊細な緑の世界の中にあたしが映っていて、あたしが口を結ぶと、雛伊さまの瞳の中のあたしも口を結んだ。雛伊さまはだまってあたしの髪を撫でていて、あたしはだまって雛伊さまの目を見てる。そういう、天国みたいに安らかな静けさを、吐息まじりの雛伊さまの声が破った。
「だって、もう起きないかと思った」
 その声が少し震えていたから、「そんなわけないじゃないですか」とあたしは笑う。笑ったのだけれど、雛伊さまの声の震えにつられて、あんまり上手く笑えていなかったかもしれない。
「あたし、さよならもありがとうも言わないで、雛伊さまにお別れするほど無礼じゃないし」
「うん」
「寒さやばくてマジで死ぬかと思ったけど、死のうとは思ったことないし」
「うん」
 うん、うん、と雛伊さまはうつむきながら頷く。うつむいていても、寝ているあたしの方が頭の位置が低いから、雛伊さまの顔を覗き込めてしまう。頷くのに合わせて、はらり、艶やかな黒髪が揺れて、顔は影になっているけれど、瞳もなんだかうるうるしているように見えた。そこであたし、雛伊さまの目がいつもより腫れぼったい気がするのに気がついた。よく見ると目尻もほのかに赤い。あたしはなんだかうれしくなっちゃって、きゅっと口角が上がってしまう。
「――雛伊さま、泣いてました?」
「馬鹿」
 雛伊さまは両手で顔を隠してぴしゃりと言った。馬鹿、だなんて、ずるい。馬鹿、だなんて「うん」と言うのと同じなのに、とても愛おしくてたまらなくさせるのだから、ずるい。あたしは思わずふふふと笑ってしまう。一度笑うとなんだかおかしくてたまらなくなっちゃって、布団をいっそう自分の体に巻きつけながら、ふふ、ふふ、と笑う。
 と、雛伊さまが両手を手から離した。雛伊さまは下唇を噛むみたいに口を結んで、きゅっとあたしを潤んだ瞳で睨むものだから、あたしはすっと笑うのを止めてしまう。
「――ばか」
 本当に泣いているみたいな声だった。喉から懸命に絞りだしたような、声。なんだかあたしも泣きそうになってしまう。今にも泣き出しそうな雛伊さまの目が、乱反射させるようにたっぷり光を吸い込んで、きらきらだ。そのきらきらの瞳をまっすぐに向けられて、ふたり、光に閉じ込められたみたい。雛伊さまの手があたしの肩に置かれて、雛伊さまの顔がだんだんと近づいて、あたし、静かに目を閉じて――。
 そのときだった。
「お嬢様」
 きい、とドアが開く音がして、はっとあたしは目を開ける。雛伊さまもすっかり顔をドアの方に向けていて、その視線の先にはシャロがいた。キスは、おあずけになった。
「ノックぐらいして頂戴よ」
 雛伊さまが少し苛立ったように言うと、シャロはドアの前に立ったまま肩を竦める(雛伊さまの部屋は土足厳禁だから、今のシャロさんみたいに、土足ではドアの手前の四方七十センチ程までしか入れないの)。
「失礼致しました――ですが、執事はノックをしないものですし、私もいつもノックをしておりませんが」
「……そうだったかしら」ぽつりと呟きながら、雛伊さまが髪を耳にかけなおす。「それで、どうしたの」
 あたしはもぞもぞと布団の中で動いた。なんだか居心地悪くて変な感じ。寝返り打って、ふたりの方じゃなくて壁でも見つめてようかなと思ったけど、それもちょっと嫌で、顔の半分ぐらいを布団にうずめたままふたりの会話を聞く。
「――パァルさんはまだ寝ておりますか」
「寝てる」
 寝てるもん、と、あたしはシャロから隠れるように頭まで布団を被った。と、雛伊さまに頭だけ布団をはがされて、ぎゃっと声をあげる。
「いえ、この通りさっき起きたところよ」
「元気そうで」
「わりあい元気ね」
 あたし、じとっとふたりを見つめたけれど、構わずシャロが口を開いた。
「それで、本題なのですが――その、お嬢様のお見合いのことですので、パァルさんが起きていらっしゃるなら別の場所でご説明しようかと」
「ああ、それのことね……」
 雛伊さまが溜息をつく――って、お見合い?「お見合い」の四文字と一緒にたくさんのはてなマークがわたしの頭の中を飛び交う。
「わかった、暖かい格好をして廊下に出るから外で待っていて」
 そう言うと、雛伊さまは立ち上がって、膝掛けにしていたショールを羽織った。「かしこまりました」とシャロは部屋を出て行ったけれど、あたしも雛伊さまも何も喋らなかった。目を合わせるのも、顔を見せるのも、何か不必要なことを言ってしまうのも、なんだか怖い。そんなことでやきもきしているうちに、雛伊さまはすっかり支度を終えて、ドアノブに手をかけた。でも、そのまま三秒くらい止まって、急にこちらを振り返った。
「じゃあね、水とコップはそこに置いてあるから」
 ベッドのそばの机のペットボトルとコップを指差すと、雛伊さまは目を伏せがちに出ていった。小声で「ありがとう」と言ったけれど、ドアが閉まるのと同時だったから、雛伊さまには届かなかったかもしれない。
 そうしてあたしは雛伊さまの部屋にひとりになった。部屋の天井を見ながら、しばらく放心する。雛伊さまがお見合いってこと?……そりゃ、雛伊さまのお家のことだからなくもないだろうけど……。
 と、あたし、気づく。そうだよ、雛伊さまって執事もいるし、正真正銘お嬢様じゃん。お家柄チョー良いじゃん。そんな良家に自由恋愛などいう概念は存在するのだろうか。よくあるフィクションみたいに、結婚も政略結婚ばかりだったりするんじゃないだろうか。だから雛伊さまがお家の方から縁談が来てお見合いする、とか、ないこともないだろう。てか現に今、そういう話。えー、お見合い、かあ……。さっきまで近くにいた雛伊さまの姿を思い浮かべる。艶やかな黒髪が綺麗で、顔も美人で、オーラも知的で、良家出身ともなれば、お見合い相手もさぞかし嬉しいんじゃないんだろうか。
 でも、お見合いとかいう短い時間で、雛伊さまのことをすみずみまで知れるかというと絶対そんなことはない。どんなにいいお見合い相手より、きっとあたしの方が雛伊さまのことを知っている。あたしほどじゃないけどちょっと子どもっぽいところがあることも、横文字に弱い一面も。雛伊さまのことだけじゃなくて、雛伊さまと食べたごはんの味も、雛伊さまと遊びにいった場所の楽しさも知ってる。透き通った緑の瞳が不意に揺れる瞬間があるのも、満面の笑みが詩的表現とか抜きにして本当にひまわりみたいなのも、あたしは全部、ぜんぶ知ってるのに。
 あたしは寝返りを打った。壁をじっと見つめていると、なんだか視界が滲む気がして、固く目を閉じた。あたしはそのまま、また寝てしまった。

「パァル」
 雛伊さまの声で、はっと目が覚める。とんとんと肩を叩かれたので顔を布団からあげると、雛伊さまが「おはよう」と言った。あたしはちらり、壁の時計を見やる。
「もう九時――って、朝の九時?」
 慌ててがばっと起きると、急に体を動かしたから頭痛がぐわんとして、うっと頭を手で押さえた。
「いえ、午後の方――大丈夫?」
 雛伊さまが背中をさすってくれる。「大丈夫です」なんとなく顔を合わせられなくて、壁の方に目線を投げると、体を起こしているから窓の外が視界に入った。たしかに、窓の外は真っ暗で、夜だ。月がなくて、本当に真っ暗。
「夜だ」
「夜よ」
 あたしは振り返って、雛伊さまの顔を見る。雛伊さまも窓の外を見ていた。目も、輪郭も、顔立ちも、雰囲気も、オーラも、綺麗。綺麗な人。大好きな人。あたし、目を伏せる。
「パァル」隣で、静かな声がする。「あのね」
 うん、とあたしは喉の奥で返事した。あのね、の後の沈黙が長ければいいのにな、と目を閉じる。でも、すぐに目を開けた。布団の上のあたしの手に、そっと雛伊さまの手が重ねられたからだ。
「縁談は、断ったから」
 あたしはゆっくり顔を上げた。雛伊さまが真っ直ぐこっちを見ている。「そう」なんでだろう、言葉が喉につかえて上手く出ない。「そう、なんですね」
「ねえパァル、寝てるときに泣いてた?」
「なんでですか?」
「目が赤いから」
 雛伊さまの手が優しくあたしの頬を撫でた。細くて、すこしだけひんやりしていて、優しい指。「泣いてませんよ」ぽつりとあたしは呟いた。でも、その言葉が引き金となって、じわりと目頭が熱くなる。どうにか抑えられていた涙が、堰を切ったようにあたしの視界を奪う。「泣いてません」
 雛伊さまがベッドに腰掛けて、あたしを後ろから抱きしめた。雛伊さまの髪とあたしの髪が絡んで、腕から、首からぬくもりをとても感じてしまって、余計に涙がぽつぽつと雛伊さまの布団に落ちる。うう、と惨めな声を出して、あたしは布団に顔をうずめた。
「……それ、わたくしの布団」
 と、雛伊さまが腕をあたしから離す。あたしはぐしょぐしょの顔を上げて、雛伊さまを見つめる。
「……駄目ですか」
「うーん……上目遣いがずるいから、駄目」
 うえぇーんとあたしが両手で顔を覆うと、「それは嘘泣きね」と即座に言われた。
「……ばれました?」「それくらい簡単よ」「でも泣いてるのは本当です」「泣いてないんじゃなかったかしら?」「泣いてます!泣いてるんです!もう、雛伊さまの布団で拭きますよ」
 手の甲で涙を拭きながら、いーっとかわいくない顔をすると、はいはい、と雛伊さまが机の箱ティッシュを持ってきてくれた。
「はい、こっちで拭いて頂戴」
「はあい……」
 あたしはありがたくティッシュを頂戴して、涙を拭いた。拭きながらまた泣いた。でも、雛伊さまがいてくれたから、悲しい夜じゃなかった。

 あたしが雛伊さまの部屋を出たのはもう消灯時刻を過ぎた頃で、フットライトがあるだけで、月はない今宵の廊下はいつにも増して暗かった。ただ一階上に上がるだけなのに、心配だからって雛伊さまがついてきてくれることになった。実のところ、あたしは夜中にトイレに行きたくなった五歳児か!と思わないこともなかったけれど、雛伊さまと一秒でも長く一緒にいれることはとても嬉しかった。
 こつこつ、と絨毯に静かにふたりの靴音が響いて、なんだか息を潜めて話さなければいけないような気持ちになる。だから、あたしは静かに口を開いた。
「あの、聞いていいのかわかんないんですけど」
「何?」
「お見合い、なんで断ったんですか」
「だって、パァルがいるもの」
 ふふ、と穏やかに雛伊さまは笑った。あたし、顔が熱くなる。月のない夜でよかった。あんまり赤い顔を見られるのも、なんだか恥ずかしいし。
「なんか面と向かって言われるとチョーうれしいですね……」
「何度でも言えるわよ」
「それはあたしが死んじゃう」
 そうこう言っている間にもうあたしの部屋の前に着いてしまった。「じゃあね」と雛伊さまが言ったのを、「待って」と引き止める。
「忘れ物しちゃいました」
「わたくしの部屋に?」
「いや、そうじゃなくて」
 きょとん、と雛伊さまが首を傾げた。あたしはその首に抱きついて、頬にちゅ、とキスをする。
「おやすみなさい」
 雛伊さまがちょっとびっくりしたように息を飲むのがわかった。「おやすみ」
 おやすみ、おやすみ!去り行く雛伊さまの背中に小さく手を振りながら、あたしは雛伊さまの「おやすみ」をかみ締めるように反芻した。お、や、す、み。その響きがあまりにあまい悲しみで、雛伊さまに朝までおやすみを言い続けられたらいいのに、と思った。朝まで、命が果てるときまで、雛伊さまにおやすみを言うのはあたしでありたい。あたし、もしかしたら、雛伊さまと一緒にいられるなら、おやすみを言い続けられるなら、行き着く先が地獄だって天国だって構わないのかもしれない。いや、かもしれない、じゃなくて、きっと、絶対そうだ。そう思いながら、あたしは雛伊さまが廊下の曲がり角に見えなくなるまで、ずっとずっと見送った。
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