光あれ
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。――詩篇、第百二十一
はっと目を開けたと同時、重めの本が膝から落ちた。どうやら、書架で本を読んでいるうちに転寝してしまったらしい。おれは少し溜息をついて、ロッキングチェアに座ったまま、落とした本を拾い上げる。
拾い上げたはいいものの、ぼんやりとした眠気がまだ眉間のあたりに溜まっていて、本を開く気になれない。畜生、昨日の晩、遅くまでパソコンで今月の店の経営状況をまとめていたせいだ。何度もまばたきしながら、おれはこの地下室の天井近くにある窓を見上げた。日光が窓枠からこぼれているけれども、空も山も見えなくて、ただ窓のすぐ外で草が揺れているのだけがわかった。まあでも、今日もいい日。今日もいい日なのだ。
「煙羅さん」
そうやってしばらく眠気にまかせてぼうっとしていると、不意に背後に声をかけられた。首だけ回して後ろを見ると、そこにいたのはヴァレーニエだった。彼女は一日の大半をここ・地下室で過ごし、読書に耽っているらしい。さっき、おれが書架に来たときはいなかったけどな。彼女はその白っぽい顔の筋肉をあまり動かすことなく、特に何の表情も浮かべずに、静かに言った。
「珍しいですね」
「この椅子、借りてまーす」
おれは笑いながら、ロッキングチェアをぎこぎこ揺らした。「別に、わたしの椅子ってわけじゃないですけれど」と、ヴァレーニエはおれが座っているところの隣の隣の安楽椅子に腰掛けて、本を開いた。
「何読んでんの」
依然、本を読み進める気にはなれないおれは、肘掛に頬杖をつきながら尋ねた。彼女は黒い目を本からちらりとあげて、短く言う。「タゴールです」へえ、と返事したけれど、おれはそんなに文学に精通していないので、タゴールが一体何かはわからなかった。タイトルなのか、著者なのか、ジャンルなのか。おれは顎をさすった。こういうとき、煙管があれば、と思った。煙管があれば、何も解決しなくても、どうにかなる。だが生憎おれは今、禁煙中だ。
「煙羅さんは」彼女は他人行儀的に言った。「何読んでるんです」もっとも、彼女から見て、おれは他人以外の何者でもないが。
「おれはー、――旧約聖書」
え、とヴァレーニエは本から顔をあげた。少し瞳孔を開かせて、こっちを見た。おれは軽く旧約聖書を振って、にやりと口角を上げる。
「そういうのを読む人だったとは」
「まあ、社会勉強みてェな感じで」
「まあ、いいんじゃないですか」
いいんじゃないですか、という言葉を最後に、彼女もおれも書物に意識を戻した。でもやっぱりおれの睡魔は頭から抜けてなくて、五行も読み進めないうちにまた眠ってしまった。
それから目を覚ましたのは正午を過ぎた頃だった。四半刻程寝ていたことになる。安楽椅子の方に目をやると、そこには本が置いてあるだけで、もうヴァレーニエはいなかった。彼女は四六時中書架にいるものだと思っていたが、意外とそういうわけでもないのかもしれない。
おれは欠伸と伸びを同時にして、首をまわした。頚椎からごりごりと音がして、憂鬱になる。二十年とちょっと生きてきただけで、もうこの様だ。おれはよっこらせとロッキングチェアから腰をあげて、寝ている間についてしまった気がする服の皺を、気持ち、伸ばす。
もう書架は出ようと思って、旧約聖書を小脇に抱える。帰りしな、安楽椅子に置いてある本の表紙を見た。『Gitanjali by: Rabindranath Tagore』と書かれていて、成程タゴールというのは人名であるとわかった。そのままおれは、書架を後にした。
そういえば、読者諸君、禁煙というのはかなり大変なことである。特に未成年のヤツに言っておくが、成人しても喫煙だけはしない方がいい。もうやめたいと思い立ったときにやめられるとは限らないからな。まあなんでも、例えば仕事もやめたいときにやめられるわけではないけどよ。でも仕事よりも煙草の方が圧倒的に不毛だ。だから喫煙を進んでオススメはしない。
だから、将来の身体を蝕むことだけは確定している不毛な煙草よりも、将来性があるのかないのか見当のつかない、エスニックな雑貨ばかり集めて売る仕事の方が大事、と思いたい。
そんなことを考えながら自分の店の前で突っ立って、おれは市場の空を見上げた。晴れてはいるが、ところどころに浮かんでいる雲がやけに低くて黒っぽい。直に雲行きが悪くなるのかもしれない。畜生、とおれは片頬を歪める。折角久しぶりに晴れて、市場の人足も増えてきたってとこなのによ。やや冷たい風が店の前の道を通り過ぎて、入り口に一番近いところに吊るしているインドから仕入れた象のタペストリーが揺れた。今日は、いい日。
そうやって溜息をついていると、隣の屋台のおばちゃんが「あら、あんた、売れてへんなあ」とか言ってふらりとやってきた。このおばちゃんはここの隣であみかごを売っていて、おれがこの店を引き継ぐより前、先代の下でアルバイトしていた頃からの知り合いである。オセアニアの出身って言ってたか、大抵派手な色彩のワンピースを着てて、ぱーっと性格から表情まで明るくて、気前の良いおばちゃんだ。
「おばちゃんも嫌味言う暇あったら仕事しなって」
おれはわざと嫌そうに眉間に皺を寄せて、しっしとおばちゃんを手で追いやる。
「うちは主人がおるからチョッとくらいええねん、あんたも煙草吸うてる暇あったら仕事しいや」
「おれ今吸ってねえけど」
「今この瞬間やのうてもいつもスパスパしてるやろ」
「いやー、おれ、一昨日から禁煙してるんだわ」
「はあ?あんたに限ってそんなことありゃせん」
「はあ?おれだってしようと思ったらそんくらい余裕」
「へえ!言うたなこりゃ大事件やで――なあお父ちゃん、隣の煙羅くんが煙草やめだしたッて、――」
って、おばちゃん、目を丸くしてだーっと隣の屋台に駆けてった。よかった追い払えた、まあお世話になってるし嫌いなわけじゃあ決してないけど、長話になるとちょっとめんどくせんだよな、なんて、おれは漢服(と言ってもフリルやらなんやらついた女物の似非漢服だが)の帯に左手を伸ばす。そこにはいつもなら煙管の入ったペンケースのような筒がささっているのだが、おれは今はもう煙草を絶った身であるから、そこに筒はない。頭では理解しているのに、癖でつい、事あるごとにそこを探ってしまうのだ。行き場をなくした左手がだらりと体側に下がる。はあ、と、煙の含まない息を吐きながら頭を垂れると、「へえ」と聞き覚えのある声がした。
「やめたんだ、煙草」
おれは顔をあげた。男がおれのすぐ横に突っ立ってにっこり笑っている。ライだ。「うわ」
ゆるりとした笑顔をつくっているのに“笑み”ではないような、そんな不気味な表情に背筋がぞわりとなってすぐに半歩下がる。と、下がった先にはバッグチャームとかを並べてある棚があり、棚の角にふくらはぎをぶつけてしまった。いってえ。
足を擦るおれだが、ライは表情ひとつ崩さず、大丈夫?も言わず、おれの顔を覗き込む。
「うわ、ってどうかしたの?」
「うわ、は『うっわー』のうわだッてんの」
はーッとおれはドでかい溜息をついた。おれが今来て欲しいンはおばちゃんでもなくライでもなくお客だっつーの。「どーぞ勝手に店ン中見てってください」とライをぐっと睨んでおいて、ぶつかった棚の上に並べてあるごちゃごちゃした雑貨を並べなおす。
今月はうまくいかねえことばっかりだな。今月しょっぱなから台風が猛威を振るったせいで都市部のインフラが立ち行かなくなって観光客激減、それに伴う市場の人並みの減少、それらに続いて下がる店の売り上げ――。日常でも、タンスや机に足はぶつけるわ何もねえところでよく転ぶわ、まあそこら辺はまだいいとして、昨日はおれの一番のお気に入りだったハンカチが洗濯して乾かしている途中、風に飛ばされた。適当にそこら辺の二、三人に占ってもらったらどの占い師もあんたの運気最悪って言うしひでえ。うまくいかねえどころじゃねえじゃんかよ。一昨日の占い師が「昔からやってることやめないと運気は回復しないね、まあ例えば煙草とか酒とか?」なんて言うから煙草やめてみたけど一向に改善しねえじゃん、客足も運気も。
に、しても、知人、しかもライがご来店ってのは超面倒だな。あいつ何考えてるかわかんねーし。ぐるりと店内を物色しているライをおれはちらりと見やった。嘘つくならもっと自分にとってマシな嘘つけばいいのに、なんでもかんでも嘘つく超厄介な奴。館じゃおれも信用度低いが、ライよりはマシだと思う。マナー悪い客が一度に十人来るよりライひとりが来た方が困る。
頭痛がしてきそうなこの状況に頭をかきむしりたくなったそのとき、ライが向こうで声をあげた。
「あー、これください」
そう言ってライが手に取ったのは、中央アジアの刺繍が全面に施された布だった。布、と言っても服にするための生地のような布ではなくて、ハンカチとしてもバンダナとしても風呂敷としても使いにくい、大きめのハンカチのような布。赤い刺繍は綺麗なんだが、その微妙な大きさからあんまし売れなかった。ライも手に取って広げてみては、「あ、意外と大きいんだ」なんて言う。おれは眉を寄せた。
「お前そんなの買って何に使うんだよ?」
「売ってる方が言うセリフ?――あ、買うっていうのは、嘘」
と、ライは布を畳んで元の場所に置いた。まあそんなとこだろうと思ったけどよ。けどよ、とおれは今日何度目か分からない溜息をつかざるを得ない。やってらんねーと思って、おれはレジ前の椅子にどかっと座る。
「冷やかしに来ただけならさっさと帰れよ」
ああ、めっちゃ煙草吸いてえ。貧乏ゆすりしたくなるのをぐっと堪えて、おれはライを冷やかに睨む。ライはわかりやすく目を逸らしてへらへら笑った。
「いや、冷やかしってわけじゃ――まあ、これ、ください」
と、ライはまたあの布を手に取ってレジに置いた。本当に買うのかよ。チッと舌打ちが漏れるが、おれはレジを打つ。
「一点お買い上げで税込み七百ポルンでございまァす」
「袋要りません」
ライが千ポルン札を一枚出したから、おれはおつりをその手につっこんだ。がしゃ、とおつりを握って、「ああ」とライが言った。おれは眉間をしかめる。「何だよ」
「煙草、やっぱやめない方がいいよ」
「――は?」
目を見開いて、こいつの顔を見る。なんと形容するべきかわからない色の目が、怪しげなオレンジっぽい店の明かりに、妖艶に光る。
「嘘」
囁くように呟いて、ライはにたにたと気味の悪い笑みを浮かべた。そのままライはおつりをポケットに突っ込んで、店を出てった。
その夜、おれが寝ようと寝床に入っても、なかなか寝付けなかった。ライの「嘘」という言葉がぐるぐる頭を回っている。「嘘」と言ったこと自体は本当なのか嘘なのか。「煙草をやめない方がいい」と言ったことも嘘なのか本当なのか。なぜあんなヤツのことで思案を巡らせねばならないのか意味が分からなかったが、巡りだしたものは止められず、寝たいのにおれの頭はどんどん冴えるばかりだった。
諦めておれは部屋の電気をつけた。体をむっくり起こすと、デスクに置きっぱなしになっていた旧約聖書が目に入る。聖書なんか読めば必然的に眠たくなるんじゃ、と思い立って、おれはそれを手にしてベッドに横になる。
昨日、ヴァレーニエと会話した書架では創世記の途中まで読んだが、どこまで読んだかはあんまり覚えていないし、適当にぱっと聖書を開く。『詩篇 第百四十一篇』と見出しがあった。
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。すみやかにわたしをお助けください。わたしがあなたに呼ばわるとき、わが声に耳を傾けてください。
わたしの祈りを、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。
わたしの祈りを、み前にささげる薫香のようにみなし、わたしのあげる手を、夕べの供え物のようにみなしてください。
――おれはあんましキリスト教やらユダヤ教のことについては詳しくないんだが、なんか、神に願っている場面の言葉らしいのに、わりあい不躾で傲慢な感じがした。すみやかに助けてほしいって言ったって、そんなのみんな「自分を先に助けて欲しい」って思ってるだろうし、神もさすがに一発でみんな救うわけにはいかないのだし。自分の手を供え物のようにみなしてくれと言うのだって、自分の手が供え物のように清らかだと断定できるなんてよほど自信があるように思える。我先に、という自信家な態度は、神に「愚か」と判定されないのだろうか。
これはおれが儒教ばかりに触れているから思ってしまうことなのだろうか。それともおれ自身がひねくれていて愚かなためか。愚かなやつだから、彼らの言う「主」の助けは来ないのだろうか。
おれは聖書をそこら辺にほっぽって、電気を消した。「嘘」というライの声が一度脳内でして、そのまま寝た。
おれが商売をしているこの屋台がある一角は、この市場の中でも割合ディープな場所で、清潔感のせの字はギリギリあってもいの字はない。海外の観光客向けガイドには「このあたりはスリが多くて危険」だの「詐欺に注意」だの書かれているらしい。
朝っぱらから「オイこの引ったくり!」と若い女の声が道の向こうの通りから聞こえて、ああ、今日もいい日、と市場の空を仰いで顎をさする。今日はいい日だ。根拠がなくても、今日はいい日だと思い込むのだ。今日はいい日、今日はいい日、昨日も今日も明日もいい日。
ああ、と溜息をつく。ああ、店が赤字。今日はいい日。嘘。煙草が吸いたい。吸いたくない。
そんな感じで、ぽつぽつ来る客の相手をしていると、今日もライが来た。今日はいい日。
「いい服着てるね」
ライはおれを見るなり言った。たしかにおれは今日、最近下ろしたばかりのさらぴんの薄青の女物の漢服を着ていて、おれから見ても「いい」服だ。だがおれが男と知っていて「いい服」と言うヤツは大抵嫌味だ。特にライのふわふわへらへらした笑みを見ると、おれの片頬がぴくついた。
「応、喧嘩売ってんのか?買うぞ、生憎今日は虫の居所が悪ィんでね」
丁度店にはライとおれ以外だれもいなかったし、今日はいい日だから、臓物を口から延々と引っ張り出すかのように雑言を吐いた。腹に寄生しているうじゃうじゃした虫を引きずり出したい。ライの臓物も口から手を突っ込んで全部引き出してしまいたいような心地がする。そんな語気に圧されたのか、ライの笑みが一瞬だけすうっと光を失った。
「嫌味じゃなくて、僕は純粋な気持ちでいいねって言ったんだけど」
鼻の奥がぎうとなるみたいな衝撃を受けて、思わずぼそりと言葉が口をついて出る。
「お前に純粋な気持ちとかある訳――」
――生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。
なぜか、小説の一節を思い出してしまって、おれは口を噤んだ。なぜか、って、本当はわかってるけど。鎖を撒き散らそうとするほどに、鎖が己の首を絞めていく。おれは溜息をつく。
「――いや、……」
おれはだまって、俯いた。青い布とそれに重なる白のシアーな布とが、おれの腰あたりから床に向かって広がっている。
「ごめん、聞き取れなかった」
ライが言った。おれはだんまりを決めこんでしまっていて、店を循環する空気の流れが遅くなったような気がする。
「嘘じゃないよ」
沈黙を見かねたのか、ライは言葉を重ねた。おれは顔を上げた。
「――なア、今日は帰ってくれ」
なるべく笑顔をつくって言った。ライは何か言いたげに口を開いたが、「いいから」とおれが制止すると、渋々、何も言わずにライは帰った。
そのまま、市場の人ごみの中に消え行くライの背中を店の前から見送った。丸きしあいつの姿が見えなくなったことを確認すると、おれは店に戻った。心を落ち着けるため、煙管を吸うほかなかった。レジの奥に置いておいた紙煙草を一本出して口にくわえて、ゆるやかに息を吸い込んで、赤子を大事に抱えるみたいに、ライターの火を手でおおって煙草を点ける。くわえた煙草を口から離して、ふう、と煙交じりの息を吐く。煙が蛇のように、百足のように天井に上った。いつもは煙管なものだから紙煙草は久しぶりで、まずくて、うまかった。おれはそのまま、レジ前でぼうっと煙草を吸った。
と、今日も暇を持て余した隣の店のおばちゃんがやってきた。
「ほらあんた、やっぱ禁煙なんか嘘やん」
店に客がいないのをいいことに、おばちゃんはけらけらと下品にわらった。とても下品で、すごく、よかった。おれはそっぽを向いた。
「おばちゃんうるせえ」
「はいはい、まあ、涙は拭いときや」
と、おばちゃんが変なことを言うので、目の辺りを手の甲で拭ってみると、手の甲に水がついていた。オレンジっぽい照明に、手の甲がきらきらしている。そのきらきらをおれは新しい服の裾で拭った。
そういうわけで、おれの禁煙期間は四日で幕を閉じた。ああ、と思う。ああ、と思いながら、また百足を口から吐く。オレンジの光を纏いながら舞い上がる百足を見つめながら、心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、煙草よりも仕事が大事。