2 浮雲


「もうヴァレちゃんのことなんか知らないわ!」
 あたしはいーっと口を横に歪めて、くるんとヴァレちゃんに背を向けて歩き出した。「あら、お好きにどうぞ」なんて乾いた声がいつものトーンで背中に降りかかった。もうやだやだ!やだったらやだ!知らないったら知らない!
 どすどすどすと地下室の階段を一歩一歩踏み鳴らすように上がって、書架の奥の窓際のヴァレちゃんにもよおーく聞こえるようにばしこん!とわざと音を立ててドアを閉めた。その振動はよく響いて、あたしの立っている廊下では、たまたまそこに居合わせたオペラちゃんがうおっと肩を縮めた。
「やけに乱暴だねえ、……」
 訝しげにオペラちゃんがこっちを見た。
「あら、ごめんなさい、なんでもないわ」
 あたしは赤い唇の端をにっこりと、それはもうこの上なくにっこりとあげた微笑みをオペラちゃんにあげて、踵を返して歩き出した。「あら」なんて、あたし、ヴァレちゃんみたいなこと言っちゃった。そう思うとイライラしちゃって、もう、うあーっと叫びたくなっちゃって、でもそんなことしたらヴァレちゃんに鼻で笑われるだろうし、ああ、待って、ヴァレちゃんが鼻で笑うのを想像したらもっと腹が立ってきたわ!ヴァレちゃんのことなんて知らないって言ったのはあたしなのに、なんでもかんでもヴァレちゃんを思い出しちゃって、そういうあたしに腹が立った。いや、あたしは悪くない。ヴァレちゃんが悪い。あたしがあたしに腹を立てるのはおかしい!
「ヴァレちゃんが!悪い!」
 自室に辿りつくやいなや、あたし、ベッドにダイブして枕に口をうずめて叫んだ。このままよくあるお話みたいに泣いちゃえばいい!と思ったけど涙腺なんてうるまなくて、自分の吐いた息に含まれる水分を律儀に全部枕が吸ってあたしの顔がむんわりするだけで、ああんもうと枕をベッドの隅に投げた。
 そのままベッドの横腹にぐでえっと体の全部を預けて、無心で「明日は雨になれ、明日は雨になれ」と繰り返し呟いた。なんでそう言ったかというと、梅雨のときに窓際に吊るして吊るしっぱなしのてるてる坊主がぐえっと首をもたげたままずっと笑っているのがたまたまこの姿勢から見えて、うわあつまんないのと思ったから。つまんないの、は違うか、かわいそう、と思ったからか。いや、かわいそうなら「晴れになれ」と呟くべきじゃないかしら?
 でもあたしはもう一回呟く。「雨に、なれ」
 そのままずっと、天井を見ていた。ぼーんと時計が三回鳴って館の騒がしくなるのが、自室のドアの向こうに感じられた。あたしはベッドから頭だけを起こした。窓の外でごろごろごろと雲が唸った。
 ぴかん!と閃光が部屋に満ちた。数秒ばかり間を開けてがらがらがっしゃんという雷鳴が轟く。あたしはそれに押されるようにベッドを抜けて、自室を出て、大遅刻をしつつも戦争に参戦した。
 それで結局、お菓子が勝った。戦争の場にヴァレちゃんはいなかった。落雷は止んでいたけど雨風が強くて、どっしりと構える館の窓もがたがたしていたので、あたしは、なんだかひとり、廊下でにっこりした。
「君、今はご機嫌なんだね!お菓子が勝ったから?」
 立ち止まって窓を眺めていたあたしを追い越したオペラちゃんが言った。
「まあね!」
 笑って返した。そういうことに、しておく。

 次の日は打って変わって晴天で、あたしが朝ベッドから起き上がると、首をぐったりと吊られているのににこにこしているてるてる坊主と丁度目が合った。布の皺の加減か、いつもよりその口角の上がりようがいつもより増しているように思えて、そんなわけないと思いながらすぐさまS字フックごとてるてる坊主を降ろした。そのままベッドに立ったままカーテンを開けてみると、空が青すぎて、すぐに閉めた。
 てるてる坊主は机に無造作にほうっておいて、欠伸をしつつ身支度をした。
 そう言えば知ってる?あたしのママの唇、そんなに赤くないんだよ。
 鏡の前で一回笑うのがあたしの朝の日課なんだけど、着替えた自分の前でひとりそんなことを思う。誰に?
 そんなわけでいつもと同じ感じで部屋を出て、ふらふら、ちょっと回り道をしつつ朝ごはんを食べに食堂へ向かう。だって直行するのって面白くないでしょ?ヴァレちゃんは無駄なことはそんなにすきじゃないから寄り道とか嫌いだけど――あ。あたし、廊下の窓の向こうの空に見せ付けるみたいに顔をしかめた。そうだった、あたし、ヴァレちゃんのことは知らないんだわ。なんとかして頂戴よ、青空。雲が右から左にちょっとだけ動いた。
 むーん、と、ヴァレちゃんのこととヴァレちゃんを知らないあたしのことを思い出してあたしは立ち止まって髪の毛先を左手の人差し指に巻きつけた。あーあ。ふと、髪、バッサリ切ろうかな、なんて思っちゃって、急に人差し指に巻きついてるのが蛇みたいに見える。蛇を振り払って、あたしは顔を上げて歩き出そうとする。
「――リクさん」
 冷たい声が後ろでした。冷たいっていうか、棘々しい乾いた声じゃなくて、ただ、温度が低いだけの、やさしい声。ちらり、後ろを振り返る。
 あたしの知らない、赤っぽいような茶色っぽいような長い髪の十九歳のおんなのこが数メートル向こうにいて、ワインレッドのシャツを着た青年と何か言葉を交わしている。時折微笑みあいながら。
 ねえ、あたし、声、出してわらっちゃいそう、あたしに。自分の赤い唇を噛んで歩き出して、窓の外の青空を睨んだ。窓に映るぼやけたあたしも唇がぼんやりと赤くて、青空の雲にとけた。

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