5

 欠けた月が、てっぺんに上る頃まで、ぼくたちは走って館から逃げていた。もうどこに来たかわからない。館がある辺鄙な田舎ではなくて、住宅街らしい、ということはわかった。いつからか走るのはやめて、ふたりで歩いていた。物陰から警察が出てきて、補導とかされたらいやだなあ、とか、なるべくそういうことを考えるようにしていた。他のことを考えていると頭がどうにかなりそうだった。
 さびれた公園を見つけたので、そこで休憩した。街灯がぽつんと、一つだけあって、その向こうに壁の薄汚れた公衆トイレがあり、動物を模した遊具と、滑り台と、ブランコが二つ、ベンチが一つあった。ミコトくんがベンチに座った。ぼくはその横にぼうっと立っていた。
「なんであんなことしたの?」
 ミコトくんはぼくを見上げて言った。
「それはこっちのセリフだよ」吐き捨てるように言葉を投げつける。「嘘つき」
 この胸の喪失感に、ちょっと安心していた。ぼくはまだ悲しむことができている。やっぱりふたりを愛してた。
 同時に、そう感じている自分のことがたまらなく嫌で、消えてしまえばいいと思う。他人の死を、自分のアイデンティティの確認に利用している。そんな人間が、ぼくが、なんで死にきれてないんだよ。意味わかんないよ。
「クララは――どうしたいの」
 ミコトくんは真っすぐぼくを見た。怒りも悲しみもない。何も感じていない、そういう瞳で。
「ミコトくんはやりたいことやって自由だよね。何なの」
「クララもやりたいことやってんじゃん」にこ、と、ミコトくんが唇の端を上げる。「俺は、クララと一緒じゃなくても、どうせ窓から逃げてたよ。知ってるでしょ。一緒に逃げるか逃げないかは、クララが決めた」
「うるさいっ」
「もう気が変わったんだ」ミコトくんはすくりと立ち上がって、突っ立つぼくの脇を通って歩き出した。「じゃあ、ついてこないでね」
「置いてくな」ぎっ、とミコトくんのカーディガンの裾を掴んだ。うなるような声が出る。「止まれ、逃がさない」
「それなら、ちゃんとついてこないと」
 はは、と、裾を引っ張られたまま彼は笑った。ぼくの手に余計に力がこもる。
「まあでも、あの状況だと窓から行くしかなかったから、俺はクララが声かけてくれてうれしかったけどね。窓から逃げてたら、この身体もないでしょ。まあ、別の身体を探せばいいんだけど、俺は選り好みするタイプだからさあ。ミコトのこと、気に入ってんの。資金には困らないし、ある程度自由がきくし……あと、ピアノ弾けるし」
 と、カーディガンを引っ張るぼくの手の手首を、彼にがしっと掴まれた。痛くて、思わず指の力が抜ける。指と指の間から、はらりとカーディガンの黄色がこぼれていく。
「ほら、逃がさないんでしょ。行くよ」
 ぼくの手を引っ張って、ミコトくんはぼくを犬のように歩かせた。返事はしたくなかった。ぼくの金髪が、自分の頬に張り付いて不快だったけど、それも払えなかった。月が傾きかけていた。

 夜通し歩くのは困難だったので、手頃な倉庫の陰に座り込んで眠って一夜を明かし、また再び歩き出した。朝のうちに駅についた。ここから電車な、と言われる。財布とか持ってないよ、と言うと、ミコトくんが切符を二人分買ったので、乗るしかなくなった。
 ミコトくんは慣れた様子で次々と電車を乗り換えて、ぼくはそれについて行くばかりだった。路線図から察するに、北へと向かっているらしい。何時間も乗って、たどり着いたのは、A市のとある駅だった。駅近くのタワーマンションに連れていかれて、借りてきた猫のようにエレベーターに乗り、十何階かそこらの一室に通される。表札には羽鳥と書いてあったので、ミコトくんの実家なのだろう。ちょうど誰もいなかった。キッチンのシンクに、濡れた食器が置いてあって、人が生活していることがわかる。
 ミコトくんは、ここが俺の部屋、と言って、ぼくを入らせた。ミコトくんは、今から旅行の準備をして、旅行をする旨を書いた両親への置手紙を書くと言った。
「何、旅行って」
「行きたい場所があるから」
 ぼくはそれ以上質問しなかった。待っている間、ピアノでも弾けばいいと言って、彼は部屋の隅にある茶色のアップライトピアノを指さした。ぼくは嫌だと言って、ミコトくんの部屋でただただあぐらをかいてミコトくんの様子を見つめた。ミコトくんはリュックにクローゼットから着替え二日分と、水のペットボトルと、飴の缶と、部屋の棚から何かの楽譜を一冊詰めた。それからコピー用紙みたいなものに、『旅行行ってきまーす 尊』とでかでかと書いた。思わず、それだけ、と呟く。それだけだよ、とミコトくんは笑った。
 じゃあ行くけど、とミコトくんがリュックを背負ったので、ぼくは立ち上がった。彼はさっきの紙をリビングの机の真ん中に置いて、玄関を出た。ぼくもそれに続いた。従うことが、今のぼくをなんとか繋ぎとめている。それはわかってた。でも、これだけでいいはずはなかった。
 ミコトくんとぼくはエレベーターを降りて、一階の駐輪場に向かった。ずらりと並んだ自転車やバイクの中から、ミコトくんは黒いバイクにまたがった。後ろに一人、座れるみたいだった。
「なんか、こんなんでいいのかな」
 ぼくはぽつりと呟いた。薄暗い駐輪場に、よく響く。
「俺たちはあの館以外では存在を認められないんだから、館の外に出たらもう自由なんだよ。ただの道端の霊と同じ。誰も俺たちのことを知らないんだから」
「意味わかんないよ」ぼくは俯いた。くたびれた様子の、ぼくのスニーカーが目に映る。「自由は不自由ってことなのに」
「でも、もう、帰れないってのは事実なんだからさ」
「わかってる」
 こいつはぼくからたったふたつのものを――たくさんのものを盗んだくせに、よくこうやって普通の顔をしていられるなと思う。でも、ぼくはこいつと一緒に来てしまった。全てを許しているようなものだ。だから、何も言えない。
「行きたいところがあるから、一緒に行ってよ」
「ぼくなんか連れてってもしょうがないでしょ」
 すると、あっそ、という返事が返ってきた。ぼくの肩が少し、びくっと震えた。どうもこの身体は、素っ気ない返答をされるとは思ってなかったらしい。でも冷静に考えれば、ミコトくんはこういうやつだ。ひどいやつ。今もぼくにお願いしてるけど、絶対にぼくのことなんか本当は考えてない。面倒な荷物だと思ってるんだ。じゃあ、あの時、ぼくのことも殺せば良かったじゃんか!
「そう思ってればいいんじゃねえの」
 ぼくがうつむいて唇を噛んでいるうちに、ミコトくんはいつの間にかしっかりとヘルメットを身に着けている。
「いやだよ、バイクとか」
「歩いてたら日暮れるから」
「生きてく速度とかもうないようなもんじゃん」
「人間になるの諦めたの?」
「そのことは言わないで」
「ごめん」
 ぼくは膝を抱えて座り込んだ。腕に自分の顔をうずめた。髪がくしゃくしゃになった。頬に、唇に、髪の毛の先が刺さる。そのまま自分が刺し殺される想像を、した。
「ごめんってば。来てよ」
 やわらかい声で言われて、やっとしぶしぶ立ち上がった。乗って、と言われたので、バイクにまたがった。つかまって、と言われたので、肩につかまるしかなかった。
 ミコトくんがちょっと後ろを振り返ってから、バイクはマンションの裏の道を緩やかに走り出した。そのうち大通りに出た。霊が壁をすり抜けるように、車の間を縫って進んでいく。
「ねえ、免許持ってるの?」
 赤信号で一時停止したとき、ふと聞いてみたが、ミコトくんは無言だった。もうやだ、と思った。

 ミコトくんには自由に使えるお金があるらしくて、夜は二人分の宿代を払ってホテルに宿泊した。いやに乾燥した部屋だったけれど、ツインベッドはどちらもふかふかだった。この世の幸せみたいなベッドだった。こんなベッドがある世界で人が死ぬなんて考えられない。けど死んだ。ぼくはトラックで死んだし、ミコトくんも何かしらで死んでいるし、幼馴染は彼に殺されて死んだ。やっぱりぼくがトラックにはねられそうになったときから今まで、長い長い夢を見ているんじゃなかろうか。
「明日、白んち行くから」
 ぼくがベッドに身を投げていると、ミコトくんが寝巻に着替えながら言った。
「なんで」
「言ったじゃん。兄弟だって」ミコトくんも、隣のベッドにダイブする。「俺、流産なんだよ。白は双子の兄。で、俺が死んだから、母親が気狂いして、エンをどっかから代わりに連れてきて、白の双子の弟ってことにしたってわけ」
 太陽も月も東から昇るんだよ、と言い聞かせるような、そういう口調でミコトくんは喋った。何だよそれ、ほんとの話? そう思ったけど、色々な驚きが重なって、ぼくは何も言えない。
「ふたりとも可哀想だよな」
 はは、と乾いた笑みが部屋に広がる。ミコトくんがお金を払った部屋に。館から遠く離れた地の部屋に。
「空っぽで」
 ぼくは深く布団を被った。全方位への呪いの言葉だと思った。ふたりの兄弟のみならず、ぼくにも突き刺さった。ミコトくんが電気を消して、寝た。
 とにかく、ミコトくんと接していてわかるのは、ミコトくんは他人を呪うことで生きているんだなということだった。ぼくも呪われているんだろうな。他人を呪う人の背中をしているな、と、バイクの後ろに乗りながら思う。薄っぺらい。空っぽだ。何かに対する憎しみしかなくて、それを笑った顔で包み隠している。
 移動中は常に、ぼくには何が残っているんだろうか、ということを考えながら、風に吹かれていた。この不完全な身体と、霊魂が残っている。故郷は捨てたし、故郷の写真も破いたし、命より大事だったはずの幼馴染も死んだし、館も捨ててしまった。幼馴染を殺した人間もどきだけが、ぼくに残されていた。最悪だ。最悪の状況だ。それでもぼくは生きたいらしくて、この世から消えることができていない。幼馴染への愛から、この男に復讐するため? そう思い込もうと思った。けれどそれは、ミコトくんの背中から感じる薄っぺらさ以上に薄っぺらい動機付けだった。それが悲しかった。もっと純粋な、生命への執着が心に根付いていることを、生まれて初めて突きつけられ、実感した。
 ぼくは幾度となくミコトくんの後ろで涙を流した。誰も見ていないと思う。誰もぼくの存在を気にしていないと思う。早く消えてしまいたい。よっぽど呪いに塗れたミコトくんの方がヒトとして自然で、ふさわしいとさえ思われた。
 白くんの家には、午後に着いた。港町で、海岸に沿った大きな道路から少し小道に入ったところに、ミコトくんの目的の家があった。建物のすぐそこに海があるというのは不思議な気持ちになる。背後にいつも海がある暮らしの想像がつかないが、まあさして内陸部と変わらないのかもしれない。
 そう大きくはない普通の一戸建てで、外壁は少しくたびれた感じもあるが、おおむね綺麗に保たれている。車庫の前にバイクを停めて降り、ミコトくんがインターホンを押した。すぐに、はーい、と、女性の応答があった。
「すいませーん、僕、白くんとエンくんの友達で、羽鳥尊っていうんですけど」
「ああ! ミコトくんね。白が毎日手紙に書いてくるのよ」
 口調からして、白くんたちの母親だろうと思う。
「白くんに、いつもお世話になってますー」
「こちらこそ」
「今、友達とツーリングしてて。申し訳ないんですけど、トイレ借りれないですかねえ」
「ええ! 良いわよ」
 程なくして、玄関から四十代と思しき女性が出てきた。白くんとエンくんと同じ、白髪だ。
「こちらは、クララです」
 急にミコトくんがぼくの肩に手を置いて、ぼくを紹介する。
「え、ああ、クララです」
「館の友人です」
 どうぞ入って、と玄関に招かれて、ミコトくんから先に入った。ぼくが後ろ手でドアを閉めるかたちになった。
 あ、これ、と言って、ミコトくんが指差したのは、玄関の靴箱の上に飾ってあった家族写真だった。この女性と、父親と思しき男性が、幼い白くんとエンくんを挟んで立っている。
「ふたりって、よく似てますよね。本当に双子みたいだ」
 ばか、のば、を言いそうになった。ぼくの顔が引きつった。ばし、とミコトくんの黄色いニットを着た腕を叩いたつもりだったけど、ふわ、みたいな音しか出なかった。
「知ってますよ。あなたの秘密。ふたりに言ってないんですよね? 血が繋がってないってこと」
 ミコトくんは女性に詰め寄った。先ほどまでにこやかだった母親の顔が、さあっと青くなる。
「ああ、――もしかしてあなた、エンの本当の家族――待って、わたしはエンのことを大切に育ててきた。それは本当なの。ねえ、さらってごめんなさい。あの時は気が狂ってて、子どもを二人育てなきゃいけないって思い込んでて、それで――」
 母親は後ずさったかと思うと、地べたに倒れるように座り込んで、唇を震わせながら口々に言葉を並べた。ミコトくんのことを、エンの血縁者だと勘違いしているらしかった。ミコトくんは家族写真を手に取ったかと思うと、玄関の床に落とした。装飾がばきっと割れる音がして、フレームやガラスの破片が双子の母親の方に飛び散った。女の悲鳴がする。ミコトくんは喜劇でも見ているみたいに笑った。
「今更何を言ってるんですか! こちらは安心しましたよ。ふたりとも元気に育っているじゃないですか」
 ぼくは何を見ているのかわからなかった。ミコトくんが爽やかに笑っていた。とても悪魔には見えない。
「お邪魔しました。ね、行こう、クララ」
 名前を呼ばれて、どきりとする。ぼくは後ずさった。それではごきげんよう、と言い、ミコトくんは玄関のドアを開けてゆったりとした足取りで外へ出た。ぼくはそれに続いた。ドアを閉めるとき、母親が地に伏して泣きながら写真のフレームを拾い集めているのを見た。ぼくは音を立てないように、ドアをそっと閉めた。
 この町のプリンがおいしい喫茶店を知っているから、そこに行こうと言われた。ぼくはわかった、とだけ返事をした。またバイクにまたがった。改めて、ここがミコトくんの――ミコトくんの中身の本当の故郷であることを知った。
 そこはこじんまりした喫茶店で、ぼくら以外に客はいなかった。ミコトくんは当たり前のように、二皿のプリンと二人分のコーヒーを頼んだ。ボックス席の向かい合わせのシートはなんとなくたばこ臭かったが、どうということもなかった。
 注文したものを待っている間、沈黙が来るのが嫌で、ぼくは口を開いた。別に、バイクに乗っているときはどちらも黙りこくっていて、慣れっこなのに。この店の変にオレンジっぽい照明のせいだな、と思う。
「やっぱ、ぼくなんてあの場にいらなかったじゃん。ミコトくんだけべらべらと」
「いや。クララがいなかったら、殴り殺してた」
 はは、とミコトくんがいつものように笑った。ぼくはふたりの死骸を思い出してぞくりとした。ウェイトレスが出した冷水のグラスに、水滴がひとつ伝う。もうひとつ伝い始めそう、というくらいまでぼくらは黙っていたが、ため息をついて、ミコトくんが喋り出した。
「本当の母親も、俺のことを知らない。さっきのではっきりしたのは、クララしか俺を知らないってことと、それゆえにクララしか俺を本当に殺せないってことだな」
「ぼくが?」ぼくは思わずミコトくんの目を見た。
「頼むよ」
「頼む前に、ぼくの大切だったもの……返して」
 その言葉を口にしながら、ぼくの視界はじわじわと歪んでいった。頬に温かい涙が伝っていた。返して、と言ってもどうにもならないことよりも、大切「だった」ものと言ってしまったことの方が辛かった。自分の言葉で胸が苦しい。
「返して、って、ふたりを?」
「うっ、かっ……、えして、よっ」
 ふたりを愛すると言うことは、ぼくにとっては彼らに心配をかけないということで、それはいつの間にか、ぼくの呪いになっていた。ぼくが霊であるということは隠し通さなくちゃいけない。でももう、ふたりがいなくなったら、その必要はないんだ、って、どこかで思ってたんだろうな。だから、ミコトくんに、何にもできなかったのかな。天使のことなんか、突き落とせないよ。
「ぼくの、かえ……して……いきる、いみ」
 知ってた、いつもぼくは大切だったものを自分で捨ててるんだ。あの時は両親への愛を捨てて、今回は幼馴染への愛を捨てた。ピアノも捨てて、館も捨てて、自分の身体まで捨てた。全部、自分で、捨てた。
「もう、死んでんのに」
 ミコトくんは静かに言った。本当に、囁くような呟きだったけど、ふたりしか客のいない狭い空間で、聞こえないことなんてない。
「なんでっ」ぼくは顔を上げた。涙で輪郭のぼわぼわしたミコトくんの姿をにらみつけた。「なんでそんなひどいことばっか言うんだよっ」
 ひどいことだけど、本当のことだ。ぼくはもう、とっくの昔に死んでいる。キリネと蒼も死んだ。ぼくの生きる意味はもうないはずだ。いや、最初からそんなのはいらなかったのかも。ぼくは、生きたいっていうエゴしか持ってない。それがさびしくて、何かにかこつけて、この世にしがみついてるだけだったのかも。大切なもののために生きてるんだって自分に言い聞かせて、それがもう大切じゃなくなったら、新しい別のものに縋って鞍替えしてるだけなんだ。だからふたりを失ったからといって成仏するわけがないんだ。ひどいよ。
「ひどいと思うなら、殺せばいいのに」
「あんたを殺したって、何にも戻ってこないじゃんか……」
 生きる意味は自分で捨てたんだから、ミコトくんが返せるものでもない。第一、返ってきても、もうぼくは受け取れない。両手で掬ったって、指と指の間からこぼれていくだろう。こうやって、瞬きすると目尻から落ちていく涙みたいに。三度ほど瞬きをすると、少し、視界の歪みが減った。
「殺してもらわないと、クララのことまで殺しかねない」
「ここまで散々やっておいて、なんで急にぼくの殺しに罪悪感持つんだよ、嘘つきも大概だよっ」
「好きだから」ミコトくんはふわりと笑った。目は三日月のようだった。「好きだから、俺が殺す前に、殺して」
 ぞく、と、ぼくの全身がこわばった。嘘。嘘つきの目に、ぼくの泣き顔が映っている。ぼくの胸は元からずきずき言っていたし、ぼくの頬は元から熱くなっていた。好きだから、なんて嘘。こいつは平気で人を傷つけて欺くやつ。わかってる。でも、嘘でも言うなよ。
 ミコトくんは手を伸ばして、ぼくの頬の涙を丁寧に払った。その異様にやさしい手つきが、本当だよ、って言ってるみたいで、嫌だった。でもぼくはそのまま、ミコトくんの好きにさせて、ただただ泣いた。ミコトくんがぼくを好きでも嫌いでも、ぼくに殺してほしい理由がどうであっても、結局は殺されたいっていうエゴの塊だ。ぼくも同じだ。
 ウェイトレスがプリンとコーヒーを持ってきても、ぼくはまだめそめそ泣いていた。黒髪を一つに縛った若い女性が、冷ややかなまなざしで、ぼくらを交互に突き刺した。ぼくは無視してプリンを自分の手前に引き寄せた。ウェイトレスは立ち去った。濃い茶色のカラメルのかかった、黄色いプリンにスプーンを入れる。すくって食べる。苦めのカラメルだった。たまごの味がする。かためのプリンだ。コーヒーを飲んだ。苦かった。ミルクを入れてみる。やっぱり苦かった。そのうちに泣き止んでいた。
「ぼくはさ、プリンはやわらかめが好きだし、コーヒーよりカフェオレが好きなんだよね」
「じゃあ、いらない?」
「ばか」
 ぼくは大きめにプリンを掬って、飲み込んだ。かためのプリンは好きではないが、おいしいのは事実だった。
「ねえ、明日から、どうすんの」
「んー、特に用はないかな。もう白んち行っちゃったし。強いて言うなら、綺麗なもんが見たいかなあー」
「行きたいところがあるんだけど」
「どこ」
「ぼくが死んだ土地」コーヒーを飲むミコトくんの目が見開かれた。ぼくは今日初めて、少し笑った。「ミコトくんの死に場所だよ」

 ぼくの故郷は、白くんの実家のある地方と真逆の地方で、バイクで行くのに二日かかった。有料道路は使わないで、下道だけで地道に移動したからだった。山の中も通ったし、川のそばも通ったし、海沿いも通った。もうバイクの後ろで泣くこともなくて、たまに歌を歌った。
 見慣れた川と橋だな、と思ったら、ぼくの故郷だった。川に沿った桜並木は、ちょうど満開だった。花曇りで、空とソメイヨシノが同じような色をしていて、どこまでも白い。きれーじゃん、と、風の中でミコトくんが言った。
 真っすぐ行って、とか、右に曲がって、とか言っているうちに、ぼくがあの日トラックではねられた横断歩道があった。なんの変哲もない横断歩道であり、普通に人や車が行きかっていて、それでもこの世で人は死ぬんだなあと思った。ぼくがくつくつと笑うと、何、とミコトくんに訝しがられる。
 それで結局、自分の実家の前にバイクを停めさせた。もう二度と帰ってくることはないと思っていたけれど、帰って来てみると、意外と記憶よりも見すぼらしい家で、それが心地良かった。試しに家のドアノブを回してみると、鍵がかかっていた。日中、誰かが家の中にいるなら、鍵をかけないでいる家だったから、たぶん今誰も家にいないんだろうと思った。玄関の前にある鉢植えの裏に隠してある鍵を取って――ぼくがまだこの家で暮らしていたころと隠し場所が変わっていなくて驚いた――鍵を開ける。やっぱり玄関に靴がない。入って、と、自分の持ち家のようにミコトくんを通した。
 ぼくらはピアノの置いてある部屋に向かった。ぼくの家には、小型だが、グランドピアノがあった。死ぬ前に弾き倒しなよ、とぼくはピアノのカバーを外した。
 ミコトくんはラヴェルを弾いた。夜のガスパールじゃなかったけど、亡き王女のためのパヴァーヌだった。悔しいけど、ミコトくんのピアノは好きだなと思う。本当にぼくが殺してしまうのだろうか。
 バッハの聞きなれたインベンションとか、手頃な小品も遊ぶように弾いて、満足したらしいミコトくんは、ピアノの蓋を閉めて、そこに頬杖をついた。横の椅子に座って聞いていたぼくは、ミコトくんの顔をのぞき込んだ。
「ねえ、本当に死ぬの」
「クララが、本当にそうしてくれるならね」
「生き返らないの」
「生まれ変わるなら、できると思うな」
「そんなことが」
「名前をつけてくれるだけでいいと思う」
「名前? ミコトくんの?」
「俺の。俺は、尊じゃないし。エンでもないし。何者でもないんだよ」
 可哀想に。ぼくは思った。
「じゃあ、――■■■っていう名前は、どうなの」
 一瞬、ミコトくんは驚いたように目をぱちくりさせて、それからはは、と笑った。
「いたずら好きにもほどがあるって」
 ミコトくんはそう言って死んだ。頬杖ががたりと崩れて、ミコトくんはピアノの蓋に突っ伏して、白く、血色の悪い右手がだらりと黒い蓋の上に乗る。そうして羽鳥くんの身体は動かなくなった。ミコトくんの擬人化が解けて、金色だった髪がするすると黒に戻っていく。たぶん、羽鳥くんの地毛の色か。まだ温かみの残っている羽鳥くんの手を握る。ふと、羽鳥くん、いや、■■■くんのまぶたが開いた。
「はじめまして」
 ぼくはそう言って、くすりと笑った。
「ぼく、クララ。■■■くん、って言うんだっけ?」

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