3

 駅ピに誘われた次の日に、桜が開花した。まだあの写真のような満開には遠いけれど、館の門扉の前の庭の桜の木々に、つぼみが開き始めている。そういう日に、新しく館にやってきたのが、白くんとエンくんという兄弟だった。どちらもソメイヨシノみたいに白い髪をしていて、兄の白くんは特に、ぼくと負けず劣らず儚げな雰囲気だった。
 白くんはミコトくんのことを気に入ったみたいで、よく話しかけていた。ぼくはそれを遠巻きに眺めて、ふーん、と思う。それは優越感みたいなものであり、同族嫌悪とか、自己嫌悪みたいなものでもあった。ミコトくんの正体はぼくしか知らないということが、翼にもなったし、足枷にもなった。ぼくはミコトくんを避けることにした。
 キリネと蒼とずっと一緒にいたかというと、そうでもない。始め三日くらいは、バラの芽かきとか、畑の種まきとか、一緒にした。けれど、ロゼくんがしばらく帰郷するとのことで、ピアノ部屋が空いたので、秀さんに頼み込んで、ピアノ部屋の鍵を貸してもらえることになった。久しぶりの、グランドピアノと一緒に過ごす日々。自然と、食堂に行く時以外は、あまり誰とも顔を合わせないようになった。
 ピアノをなんでやっていたのか、黒々としたピアノの側面に映る自分の顔を見ながら、たまに考えた。四歳から十五歳までの十一年間は、なんだったんだろう。親が音楽が好きだったから、ピアノを習わせた。ぼくのことが好きだったから、ピアノを習わせた。そういう教育。始めた動機とかない。でも、ピアノは嫌いじゃない。ハノンもブルクミュラーもツェルニーも、ちょっとつまんない感じの練習曲も、嫌いじゃない。上手くなるから。バッハだってソナタだって、嫌いじゃない。素敵だから。好き。
 ぼくはどれかのソナタを――確かハイドンだった――二楽章までやって、三楽章の音取りをしている時に、辞めた。バッハのインベンションも途中だった。母に、このコンクールを受けたらどう、って言われて、やだ、って言った。その時、母の目の色が一瞬だけ変わった。あ、これは教育だ、と、やっと気付いた。それで、ついでにピアノのレッスンも辞めた。教育としてピアノをやっている自分に耐えられなかった。
 今は教育でもなんでもなく、純粋にピアノを弾いている、と思う。
 そうやって、三日くらい部屋に籠った。幽霊とヒトの身体能力にどのような差があるのかはさておき、さすがに頭も身体も疲れてきて、ミコトくんとの駅ピの約束の日の前日、ピアノ部屋を出て、館の夜を徘徊する。今何時か忘れたが、とにかく誰もいない。歩くたびにかさ、と自分から音がするので、なんだろう、とポケットに手を突っ込むと、離れで拾ったあの写真が入っていた。ぼくはそれをすぐにポケットに戻した。
 結局、四階のラウンジにたどり着く。南向きの大きな窓から月光がこぼれて、電気をつけなくても、程よい薄暗さだった。窓の外では桜が散っているんだろうけれど、何も見えない。室内に置かれた物のシルエットはなんとなく判別できるけれど、鮮やかに花開いているはずのガーベラも、細やかな模様が織られているはずの絨毯も、この弱々しい光に色褪せて見える。色のない世界を見ているみたい。いつもと同じなのは、黒いアップライトピアノだけ。
 窓辺に立って、月明かりに、あの写真を照らす。写真も、この夜のせいで、色を失っている。何も知らない人からすれば、ただの綺麗な桜並木。ぼくにとっては、もう見ることのできない風景。故郷はいろんな顔をする。ぼくにとっての故郷も、キリネと蒼にとっての故郷も、同じようで全く違うんだろうか。そう考えた途端、写真を握る手に力が入る。
「ふうん、桜の写真」
 すぐ後ろから声がして、(霊の心臓がどれだけ機能してるか知らないけど)ぼくの心臓は跳ねた。わっ、と声にならない声を抑えながら、振り返ってみると、ミコトくんがすぐ横に立っている。誰もいないかと思っていたのに。
「ちょ、びっくりした」
「ねえ、見せて」
 と、写真を持っていたぼくの左手に、ミコトくんの左手が重ねられ――かと思いきや、ぼくの左手の上を通り、ぼくの右肩に行きつく。同時に、彼の右腕がぼくの目前をよぎって、彼の左腕に重ねられる。そう、ぼくの両肩はミコトくんの腕の中にとらわれたのだ。後ろから抱きつかれ、いや、組みつかれている、と頭が判断した直後、違和感がした。やけにミコトくんの腕に力がない。寝ている人間のような腕で、ただぼくの肩に腕二本分の重みが乗っかっているだけ、という感覚がする。束の間、ぼくの背中を冷気、いや、霊気が伝う。そして直感する、ミコトくん――この霊はぼくの身体を乗っ取ろうとしている!
 けれど、ねえ、ぼくに身体なんてないんだよ。お前とは違って、ぼくはヒトの身体があるように見せてるだけで、実体は霊そのものなんだよ。お前が乗っ取れるもんなんか、ここにはなんにもないんだよ。霊と霊の削り合いしか、ここにはないよ。
 ぎゅ、と目をつむって、ぼくは全身全霊でミコトくんを拒んだ。すると、す、と背中から冷気が消えて、ミコトくんの身体にあたたかみが戻る。ミコトくんは乗っ取りを諦めたようだった。諦めようもなにもないんだけどさ。
「はは、やっぱり、俺と一緒」
 耳元でそう聞こえる。乗っ取れなかったから、こいつは身体を持たない霊なのだと結論づけたのだろう。ぼくはミコトくんの脚を蹴った。ミコトくんの脚って、誰の脚?
「何なの。気付いてたんじゃないのか」
「いや、確証はなかったからさあ。ごめんね。本当に乗っ取ろうとしたわけじゃないし。これは夢だから、忘れて」
 なんという都合のいいフレーズだ、と思ったが、そう言われると、ミコトくんの体温もふわりとぼくの背中から消えてしまっている、ような気がする。彼はようやく腕を解いた。ぼくははあ、と息をついて、辺りを見渡す。今度こそ絶対に誰もいない。ここにはぼくとミコトくんしかいない。彼の方を向いて、小声で呟く。
「わかってるよね」
「わかってるって」ミコトくんが、うっすらと口角をあげて微笑む。「誰にも言わない。絶対」
「本当に?」
「俺に得なんかないだろ」ぼくが訝しげな顔をしていると、彼はははっと笑った。「て言っても、信用されてないか。何で誓えばいい?」
 誓うって、どういうこと? 言ったら針を千本飲ませるとか、指を切り落とすとか、そういうことなんだろうか。何かを質に置かせるとかかな。いや、とぼくは失笑した。彼に何をしたって意味はない。
「いや、いいよ。ぼくも、ミコトくんのこと、誰にも言わないっていうことで、お互いに」
 それでいい、と、ミコトくんは頷いた。「俺の方も、ばれると嫌だし――で、『ふたり』には話してあるの?」
 ふたり、というのは、幼馴染のことだろう。
「それは……関係ないでしょ」
 我ながら、話していないやつの間の取り方だな、と思う。ふーん、とミコトくんは肩をすくめた。
「ねえ、桜の写真、見せて」
 今度は、ミコトくんは普通に手を伸ばしてきた。ぼくはその手の中に、写真を渡す。ミコトくんはそれを月光に照らして、じっと見た。
「ほんとの桜の方が綺麗」
 暗くて表情がよくわからないけれど、に、とミコトくんが笑っている気がした。写真について綺麗と言わなかったことに、ぼくは少し救われるような心地がした。
 ミコトくんが口を開いた。
「写真、好き?」
「嫌い」
「俺も嫌い」
 返してもらった写真の形を確かめるように、両手に握る。そのまま写真を破いた。びりり、という高い音が、静寂に柔らかく切り込む。彼はそれを黙って見ていた。ぼくのことなんか何一つ知らないだろうし、そもそも興味ないだろうけど、そういう人の前でこの紙くずを破ることに意味があった。

 次の日は曇りで、少し肌寒かった。ぼくとミコトくんは、館の近くの公園から出ているバスに乗り、最寄り駅に向かい、そこから五駅くらいの大きな駅にやってきた。近くに美術館や博物館、音楽堂があって、文化的な街、と自負しているらしい。駅の改札を出たところは、ステンドグラスのような色のついた窓が高い天井についていて、ホールみたいになっている。真ん中には白いグランドピアノがどんと置かれて、脇には服飾店やカフェ、画廊、本屋、とかが並んでいる。
「え、なんか、人通り多くない」
「さびれた駅ピ、想像してた?」
 まあ、ね、とぼくは肩をすくめた。ミコトくんは軽く笑った。
 ちょうど誰も、ピアノを弾いていなかった。ぼくとミコトくんはじゃんけんをした。ぼくが負けたけど、「勝った方が先なのかとか決めてなかったな」と彼が気付いて、「じゃあ次負けた方が先」とぼくは言った。結局またぼくが負けた。
 ピアノの周りはチェーンポールで囲まれていて、近くに警備員みたいなおじさんが一人立っていた。一応、その人に今から弾きます、と報告してから弾くことになっているみたいだった。ぼく、弾きます、とその人に言うと、どうぞー、とピアノの前に通される。白いピアノは初めて。白いピアノ椅子も初めて。
 おじさんが鍵盤の蓋を開けた。白と黒の鍵盤が、いつもより細い気がする。いや、太い気もする。あ、これ、と思う。これ、小さい頃、発表会で、よくあったな。発表会だけじゃなくて、クラス合唱の伴奏をさせられたときも、あった。いつもと同じはずの鍵盤の幅が、変に思える。三度音程の手の開きは本当にこれでいい? 音が飛ぶところの移動距離は本当にこう? わからなくなる。しまいには、このドはどの高さのドなのかさえ、わからなくなる。緊張してるな、と思う。そう思うと、もっと緊張する。とりあえず、演奏する曲の冒頭のポジションに両手を置くが、呼吸が浅い。たぶんだめだ。どうしても、息と手が合わないだろう。でも、弾き始めるしか。
「ほら、スケール、やんなよー」
 はっとして顔をあげた。ミコトくんが、右手でスマホをこっちに向けて、左手でこっちに手を振っている。撮られてる、と思ってぎょっとしたが、「スケール?」と、かろうじて聞き返す。「はやくー」と言われる。スマホでミコトくんの顔は見えない。
 彼の言う通りにした。今から弾くのは変イ長調の曲だから、両手をAsに置いて、長音階を三オクターブ分上昇し、続けて下降して、カデンツを弾いた。腕が脱力しているのがわかった。鍵盤の幅もふつうに見える。
 そして、もう一度鍵盤に手を乗せる。息を吐く。ピアノソナタ悲愴、第二楽章。みんな知ってるフレーズ。ピアノをやったことがない人も、音楽に興味がない人も、みんな絶対聞いたことがある。雑踏のど真ん中でピアノを弾いている。興味なさそうに通り過ぎる人もいる。ちょっと足を止める人もいる。天井が高いところで、良かった。結構楽しい。
 やわらかく低い和音が響いて、曲が終わった。見知らぬ人から、ぱらぱらと拍手がある。ピアノを練習していて良かった、と思った。へた、と椅子に座っていると、次、俺、弾きまーす、と言って、ミコトくんがやってきた。ぼくはなんとか立ち上がった。じゃ、これで撮ってて、と彼のスマホを渡される。ああ、うん、と返事して、ポールの外へ出る。
 スマホのカメラ越しに、ミコトくんとピアノを見る。ホワイトピアノって、やっぱ、おしゃれだな。今日もミコトくんは黄色いカーディガンを着ていた。全体的に春っぽい画だ。
 ミコトくんは息をするように弾き始めた。なんとなく、聞いたことある。チャイコフスキー、四季、四月、松雪草。愁いを帯びて、くるくるまわる旋律。バッハのシンフォニアを聞いた時も思ったけれど、音が痛々しく飛ぶ跳躍の切なさを作り出すのがうまいな。今度は左手の低音が歌う番で、冬の残雪を想起させる。雰囲気が変わって、風のように上昇していく順次進行。また音が飛ぶ。蝶が嘲って飛んでいくみたいに。最初に出てきたメロディーが、また出てくる。静かに終わる。
 ぽち、とスマホのカメラの録画終了ボタンを押した。ミコトくんもぱらぱらと拍手を浴びる。軽く手を振りながらピアノの前を去り、こちらに向かう
「ミコトくんの選曲ってさ、意外とおもしろいよね」
「意外とって何? おもしろいに決まってんじゃん」
 うざ、とぼくは眉間にしわを寄せた。
「ねえ、動画なんて撮ってどうすんの。まさか、ぼくのまでネットにあげないでよ」
「まさか。どっちもあげないし。ただの記録用だって――あ」
 動画を確認していたミコトくんが、ぱっとぼくにスマホの画面を見せる。この白いピアノの前に誰もいないのに、鍵盤が上下していて、悲愴ソナタが流れている動画。スマホのカメラが、ぼくの姿を写さなかったらしい。
「消してほしい?」
「いや」ぼくは少しだけ悩んだ。「いいよ」
 ミコトくんが、せっかく近くまで来たのだから美術館に行きたいと言った。特に断る理由もない。駅を出て、歩いて向かう。
「俺ってほら、いいとこの子だから、そういう文化的な空間に興味あっちゃうわけ」
「出身、A市、だっけ」
「羽鳥尊はね」「実の出身は、白とかと一緒だよ」
「ふ、うん」
 あっさりと、情報が開示された。ミコトという名前をしているのは身体で、霊ではないのか。しかも、白くんとかと関係があるのか。
「何その顔」
「そのこと、白くんも知ってるの?」
「いや、今、人生で初めて言った」
「もう人生じゃないくせに」
 ミコトくんに、はは、と笑われる。
 入館料を払って、現代アートがなんとかとかいう展示会を見てまわった。ビビッドな色合いの立体モニュメントとか、粗い風合いの版画とか、そういうのがたくさん並べられている。どの作品も何を意味しているのかさっぱりわからず、だからといって何も訴えかけてこないわけでもない。アート、という生きた魂のたぎり、か。ただただ訳のわからぬまま、心をぞわぞわと撫でられているような、嫌な感じだった。
「ねえ、この絵って、何」
 全然わかんねー、とミコトくんは首をひねった。「でも、ミコトは好きだって言ってる」
 その言い回し、ぼく以外に言ったら、たぶん伝わらないよ。ぼくは肩をすくめた。

PREV cover NEXT
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -