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 ぼくだけが、彼の秘密を知っている。
 彼、というのはミコトくんのことだ。彼は先日この館に入居してきた男の子で、ぼくを含む他の入居者と一緒に生活しているんだけれども、どうも、彼は単なるヒトではないらしい。一目見て気づいた。ある霊が、男の子の身体を乗っ取っているらしかった。ぼくが言うんだから間違いない。かく言うぼくも、ヒトにまぎれてこの館で暮らしている霊なのだから。とにかくその、ぼくの目から見るといびつな姿をしている彼は、ミコトと名乗っていた。
 ぼくは二年前の夏、死んだ。幼馴染のキリネと蒼を、交通事故からかばって死んだ。死んでもいいと思ったから死んだ。それはふたりを愛してたから、というのはもちろんだけど、ぼくはもう生きなくてもいいという諦めの結果でもあった。
 トラックに当たる直前、ぼくの脳裏に浮かんだのは父と母の顔だった。その頃のぼくは、父と母の期待に添えないぼく自身に嫌気が差していた。端的に言えばそういうこと。思春期によくありがちといえばありがち、なのかもしれないが、このことはあんまり、話したくない。
 結局、ぼくは死にきれなかった。霊としてこの世をさまよっている。たぶん、自分から逃げたいという気持ちよりも、ふたりの幼馴染のそばにいたいという願いの方が勝ったからだ。ぼくはきっと、ふたりが老いて生を全うするまでこの世にずっといる。ぼくが本当に死ぬのは、ふたりが天へ行くのを見届けてからだ。
 ミコトくんはなんでこの世にいるんだ? しかも他人の身体まで使って。ふたりのそばにいるために、ぼくはぼくとして霊でありたかったから、自らの姿が他人にも見えるように工夫したけど、彼は違うみたいだった。自分の姿を捨てて、他人に化けてまで、彼は死にながら生きている。

 ミコトくんが館に来た次の日。
 ぼくがたまたま庭で一人でいたところ、彼は近づいてきて、背後から「ねえ」と言ってきた。ぼくなら絶対話しかけたくない。こちらが彼の正体に気づいているのだから、きっと彼もぼくがヒトを装った霊であるということに、うっすらとでも気づいているだろう。そうなら、ずけずけ話しかけたくなるような状況ではないと思うんだけど。霊であることへの同情? それならいらないよ。浅いため息をついて、振り向く。
 彼は白いシャツに明るいイエローのカーディガンを着ていた。金色の髪も相まって昼の光にまばゆい姿をして、しっかりと庭の石畳に立っている。
「俺、昨日来たミコトです。クララ、っていうんだっけ?」
 あ、ああ、うん、と、ぼくはバラの木の前で肩をすくめた。ちょうど、今、紅いバラの芽が伸び始めている。「よろしく」
 と、ミコトくんはぼくに手を差し伸べて握手を求めた。恐る恐る、その手を握ってみた。温かかった。人型のいびつな生物とはとても思えない、しっとりとした温かさ。ふっと顔を上げてみると、ミコトくんは柔らかく笑っていた。しかし、目は明らかに笑っていない。茶色の瞳が、一瞬ぬばたまの黒に光ったように思えるほど、ぼくの背中がぞわりとした。自分の手が冷や汗をかいているような気さえしてくる――普段は全くかいたことがないのに。
 春に似合わない、ぴりっと冷たい風が吹いて、ぼくたちは手を解いた。

 その夜、夢に見たのは、最後に父の手を握った時のことだった。父の手は角ばっていて、手のひらの筋肉の厚みがあって、ぼくのひょろひょろした手とは大違いだった。父は管弦楽団でヴァイオリンをやっていたけど、ピアノの鍵盤のオクターブプラス三音くらいは余裕で届いていて、なんでピアノを専門にしないんだろうと思った。まあそれは、ぼくも同じか。ぼくだって幼少期からピアノをやっていたけど、十五歳で辞めて、ピアノどころか音楽さえ専門にせず、ふわふわ生きている。
 朝、目を覚ました。ぼくはもう一切成長しないのに、眠る真似ができて何の意味があるんだろうと思うけど、霊になっても夢を見られるのは幸いだった。この世界ばかりが現実ではなくて、記憶や夢の中にも現実があると思える。
 今日は、館が使っている郵便局の私書箱に郵便物を取りに行く当番がぼくにあてがわれていた。十時くらいに、のんびり出ようかなあなんて考えながら、食堂でちびちびとコンソメスープを飲む。コンソメの、コンソメの味としか言いようのない味が、割と好き。
「クララ」
 カップの半分くらい飲んだところだったが、もう食堂に人は少なかった。ぼくに声をかけたのは、いつも館の当番表を作っている秀さんだった。ぼくは秀さんのことがちょっとだけ苦手。人間味がありすぎるから。
「今日、私書箱に行く当番だろ。ついでに、ミコトに郵便局の場所教えてあげてほしいから、連れてってやって」
「ええっ」
「うん……悪いね。俺が行ければいいんだけど」
 秀さんが困ったように眉を下げて笑った。秀さんは計算してそういう顔をするのではなくて、いつも素の表情しか見せない。本当に申し訳ない気持ちでいるんだろうな、と推し量る。これだから、苦手なんだ。秀さんに何か頼まれてしまうと、断る理由が見つからない。ぼくははい、と呟くしかなかった。
「十時に玄関にいます」
「ああ、じゃあ、そう言っとく」
 ありがとう、と言われて、何に感謝されているのかわからないけど、ぼくも何に感謝しているのかわからないまま、ありがとうございます、と言う。秀さんが立ち去ってから、ぬるみきったスープをまた飲んだ。
 秀さんの反応からして、周りの普通の人たちには、ミコトくんは普通のヒトに見えているらしかった。幼馴染にミコトくんの話題をそれとなく振ってみても、返ってくるのはいたって普通の反応だった。
「あいつなあ、ちょっと馴れ馴れしい感じの」
 キリネはちょっと苦笑して、ソファの背もたれに身体をあずけた。この応接間には今、ぼくとキリネと蒼の三人しかいなくて、時計のカチコチという音がよく聞こえる。
「わかる。なんか、挨拶回りの時、握手された」
 と、蒼がふるふると右手を宙に震わせた。
「まあ、そういう文化圏なんじゃね」
 と、キリネもふらふらと右手を揺らす。キリネの薬指の指輪がきらりと光った。
「出会い頭にキスするみたいな?」
 蒼が困惑した表情でキリネにたずねたので、ぼくは思わずくすっと笑った。キリネも蒼と同じような眉のひそめかたをして笑った。
「うん、まあ、そういう例もある、んかなあ」
 ぼくはふたりと笑ってる時間が好きだ。やっぱり、愛してるって、こういうことなんだろうなあ。
 応接間の窓から、外に植わっているサクラの木が見える。赤く染まり始めた葉がわさわさと揺れていた。
「あいつってどこから来たんだろうなあ」とキリネが呟く。
「わかんない、バナナの擬人化なんだっけ?」蒼が首を捻る。
「ちがくね、黄桃だろ」
「え、そうだっけ」
 みんなよくわかんないんだね、と、ぼくは膝に頬杖をついた。
「でもなんか金持ちっぽくない?」
 蒼が笑ったので、どうして、と聞いてみる。
「なんとなく?」
 勘かあ、とぼくは返事をした。ミコトくんは金持ちっぽい、と脳内のノートに書き込む。その名前の響きからして、彼の出身地は東の地方だろう。金持ちなら、A市の邸宅街に住んでいたかもしれないな。憶測がぼくの頭の中で渦巻いていた。
 ふと、壁時計を見上げると、九時四十五分を差していた。
「あっ、ねえ、十時から当番あるから行ってくる」
 ぼくはソファから腰を上げた。ふたりがぼくを見上げた。
「どこ?」
「私書箱」
 いってらっしゃい、というふたりの言葉を背に、ぼくは応接間を出て、自分の部屋で身支度――と言っても、上にカーキのパーカーを羽織って靴を履き替え、郵便物を入れるためのトートバッグを持つだけの簡単な準備――をし、玄関に向かった。
 ちょうど十時、玄関の扉の前に、ミコトくんがいた。黒いスウェットに薄いイエローのパンツを履いている。そういえば昨日も黄色い服を着ていた。
「クララー、今日はよろしく」
 にこ、と笑われて、はは、と薄笑いを返す。ぼくが扉を開けて、ミコトくんが閉めた。ぼくたちは郵便局へ出発した。
 郵便局は、館から歩いて十五分くらいの、商店街の端っこにある。館の周りは里山があって、のどかな雰囲気だけど、歩いているうちににぎやかになっていく。ミコトくんはたわいもない話題を投げかけてきた。たとえば、今日の天気がどうだとか、ここら辺では春になんの花が咲くかとか、夏には有名な花火大会はあるかだとか。お互い突っ込んだ話はしないまま、商店街のアーケードを通り、郵便局に着く。自動ドアをくぐったとき、ぼくはほっと息をついた。
 私書箱がずらりとならんだロッカールームのような空間で、ここがぼくたちの館の私書箱ね、と、ひとつの扉を開ける。中には十三通の封筒。うち五通が主様宛。残り八通は住人宛。館に住んでいる人は、親元を離れてここに来ている子どもも多いので、家族や地元の友人から、毎日のように誰かに手紙が来る。
 その中に、『羽鳥尊様』と書いてある封筒があって、ミコトくんのかな、と思った。隣にいた彼にはい、と渡す。手触りのいい水色の和封筒を、彼は明かりにすかすように掲げた。
「誰だろ」
「お母さん? とかじゃないの」
 精神と身体、どっちのお母さんかは、知らないけどさ。と、心の中で呟く。
「ああ、本当だ」
 ぼくはちら、とミコトくん宛の封筒の差出人の欄を見た。A市××区……と書いてあって、ふうん、と思う。
 とにかく、残りの郵便物をトートバックに入れて、ぼくたちは郵便局を出た。
 商店街は、綺麗すぎず寂しすぎず、人通りもまあまああり、ほどよいにぎやかさだった。八百屋も魚屋も、花屋も本屋も開いている。
「ねえ」ふと、ミコトくんが商店街の一角を指差す。「あの楽器店、見て良い?」
 良いけど、と、ぼくはミコトくんの顔を見上げた。
 ぼくたちは楽器店のドアをくぐった。この商店街にはよく来るけど、思えば、この楽器店に入ったことはなかった。そこまで広くはない店内に、電子ピアノとアップライトが数台ずつ置いてある。二階には管楽器が置いてあるらしい。北側の壁に沿って棚が置かれていて、楽譜や五線譜がたくさん並べられていた。
 店内には、電子ピアノを弾いている小さな女の子がいた。演奏しているのは、ブルグミュラーの『二十五の練習曲』の三番、「牧歌」。ぎこちないけど、その音のぶつ切りな感じが、逆に子どもの無邪気さを表している気がする。隣で母親らしき人が見守っていて、少女が弾き終わると、弾けたねえ、と言って小さな拍手を送っていた。それを見て、牧歌、って良いタイトルだなと思う。
「あー、俺もピアノ弾きたいなあ」
「え、弾けるの」
 すいません、試奏いいですか、と、通りすがりの店員にミコトくんはたずねた。ああ、はい、いいですよ、と、めんどくさそうな顔をして、店員はすぐどこかに行った。
 ミコトくんは木目調のボディのアップライトピアノの前に座って、バッハのシンフォニアを弾き始めた。たしかこれは二番だ。ぼくは弾いたことないけど、バッハの曲を母が好きだったからなんとなく耳覚えがある。でも、こんな曲を弾くんだ。彼はもっと、派手な曲とかが好きなのかと思った、なんとなく。東洋風の顔立ち的に、地毛っぽくない金髪だし、わざわざ髪染めて、遊び人みたいじゃん。
 少し意外な選曲だけれど、ミコトくんの指は丁寧に、ミスなく鍵盤を押す。きりきりするような痛みの減七度の跳躍を持ちながら切なく歌う高声の旋律と、緩やかな鼓動のような低声がからみあうのが終わると、一瞬長調に転調して、水が零れ落ちるような順次進行。そして主題に戻ってくる。まだ曲は続いているけれど、息のしやすいピアノだな、と思った。きゅ、と全身の肌がちょっとずつ縮こまるような雰囲気の曲だけれど、旋律の息継ぎに余裕があるから、緩急がついて、情感をもって浸れる。
 ぼくは体の前で両手をぎゅ、と組んでいた。バッハの曲はつかみどころがなくて、そういうところがぼくも好きなんだけど、別の何かにつかまっていないと、本当に神さまのところまで飛んで行ってしまいそうなんだ。
 気付くと曲は終わっていた。静かな朝のようなピカルディ終止が響いていた。人の少ない楽器店からは、誰の拍手もない。ブルグミュラーを弾いていた親子はちょうど今、手を繋いで店を出ていくところだった。
「夜のガスパールが聞きたかった」
「え、ラヴェル?」
 ぼくがぽつ、と零すと、ミコトくんはちょっと顔を引きつらせた。「でも、弾けないとか言うの嫌なんだよな」とか言って、立ち上がった。
 結局、ミコトくんはラヴェルのピアノ曲集を棚から抜き取って買った。ミコトくんは高そうな革財布を持っていて、そこから何かのカードを出して支払った。ミコトくんは、お金持ちかもしれない。蒼の勘ってやっぱり合ってるのかも、と思った。

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