いろいろ | ナノ



物心ついたときから俺は忍の里にいて、そのころにはもういろんな修行を受けていた。修行といってもまだ小さかったから、基本的に文字の読み書きと掃除、炊事の手伝いや雑用などが多い。それを苦もなく受け入れたのは、俺がその里に赤ん坊のころからいたからだ。俺は忍になるためにこの世に生を受けたのだ。だからそれ以外に生きる方法なんて見つからないし、それが自分の中で当たり前だと思っていた。

「佐助くん、夕餉にしよう」

そう言って女が手にしていた書物を片づけ始めた。窓を見れば陽は傾きかけている。俺も女に倣って、読み書きのための道具をまとめた。

「今日は卵が安くてたくさん買ったから、親子丼にしようか」
「……いらない」

そう言って首を振ると、女は困ったように眉を下げた。初めて親子丼というものを見た瞬間、俺はこの女がどこぞの大名の娘なのかと肝を冷やした。普段めったに食べない卵に、鶏肉まで。しかも米は白米ときた。
衝撃で固まる俺に女は慌てたようにこれは嫌いだったか、こっちなら食べられるかと訊いてきたが、それ以前の問題だ。俺は、そんな豪勢なもの口にしたことはおろか間近で見たことすらなかったのだ。

「佐助くんはいずれ帰ってしまうからあまりこちらの文化には慣れて欲しくないけど、食文化はそっちに合わせるのが難しいなあ」

女がうんうん唸って呟く。俺はそれを黙って見ていた。

よく分からないが、俺はいつの間にか変なところへ流れついてしまったらしい。いつものように薪を拾いに行ったら見慣れない場所にいて、いつの間にか女に手を引かれてこの住まいにやってきていた。あれこれと拙い言葉で説明すると、女は俺の支離滅裂な説明だけで状況を把握したらしい。今はややこしいことになってうちにいるが、しばらくすれば元の場所に戻れるよ、と女は笑っていた。
俺はまだ数えで八つ。こんなところで忍のいろはも教えられずに生きていけるのだろうかと、そのときは本気で心配したのを覚えている。

実際、ここの暮らしは俺が想像していたものをはるかに超えていた。食べるものも着るものも、里よりも上質だった。少ない飯の奪い合いをする必要もなく、ましてやひもじい思いもしない。寝るときだって、里のように湿気を吸って重たい寝具ではない。寒さに凍えながら重たい寝具の中で空腹を我慢することなんて一切ないのだ。
けれど、空腹になる必要がなくなったとはいえ、いっかな飯に慣れることはできなかった。こんな豪勢なものを食える身分ではない。
女は、自分がこの生活に慣れて里に帰ったときに困ることがないよう、出来る限りほとんどを俺の里の暮らしに合わせてくれた。朝夕の飯、起床時間、飯の具材も最大限合わせてみせた。それでも難しいときは俺が精一杯の譲歩という名の贅沢も味わった。そうしているうちに、俺が女のところに来てから既にひと月が経とうとしていた。

「……なにしてんの?」

ある日、女がくたびれた布に針を当てているのを見た。声をかけると、笑ってそれを軽く持ち上げる。よく見るとその布は、俺がここに来たときに着ていた着物だった。

「佐助くんが着てた着物がだいぶ古かったから」
「そんなの、」

捨ててしまえばいい、と言いかけて俺は口をつぐんだ。つぎはぎだらけの古びた着物。裾も短いし、余った着物や年に一度貰える新しい布を少しずつ使って自分で縫い足して着ていたから、ずいぶんと不格好なものになっている。きっと、ここの人間ならまずその汚さに(例え洗濯していたとしても)手をつけないだろう。
それなのに、女は薄く笑みを浮かべながら丁寧に着物のほつれを直していく。

「――あんたってさ、変なやつ、とか言われない?」
「よく分かるねえ」
「だって、普通こんな得体の知れない餓鬼を拾ったり、その餓鬼の古びた着物を直すやつなんていないよ」
「佐助くんの話によると普通じゃないからね、私は。だからいいんじゃない?」

女に言われて、そこで俺はぐっと黙り込む。女は楽しそうにからからと笑うと、そっと俺の頭を撫でた。思わずびくりと肩を震わせる。里では、誰かが俺に向かって手を上げるときは叩かれるときだと体が覚えていたから。だから女が俺に手を伸ばしたときも、叩かれるのだと体が反応してしまった。
撫でられるという行為に慣れていない俺の体はひどく強張っている。そんな俺を見た女は、目をぱちぱちと瞬かせたあと、柔らかく微笑んで再び俺の頭を撫でた。

「佐助くんは向こうじゃずいぶん大変な思いをしてたんだから、ここではただの子供として過ごしなさい」

そっと抱きしめられて、今度こそ体が麻痺を起こしそうだった。毒味のときにあたってしまった毒よりも苦しくて、鼻の奥がつんとする。

俺は親を知らない。物心ついたときからひとりの忍として育てられた。俺を特別大切に扱う大人はいなかったから、たぶん里に売られたのだと思う。忍の師範もそうだと聞いた。
だけど、もし俺に親がいたのなら、きっとこんなふうだったのではないだろうかと思った。

「ねえ」
「ん?」
「苦しい。やめて」
「やめないよ」

苦しいのは心臓だ。そんなこと言うのはこそばゆくて、俺はそれをごまかしたくて女の頬を軽く叩いた。女は小さく笑って、さらに強く俺を抱きしめる。胸が苦しくて熱い。

俺はこの慣れない場所でこの日、確かに『幸せ』というやつを体感していた。



(120509)
まだ子供を捨て切れない八歳の佐助くん

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