いろいろ | ナノ



ぱしゃ、と水が跳ねる。片手で水を掬っては水が流れ落ちていくのを見続けてからどれくらいが経っただろうか。陽の昇り具合を見てから再び水面に掌を浸した。
私が知っている湖の色よりやや暗い水面に丸い波紋(この丸く柔らかい水面が波紋だということを最近知った)が広がる。波紋はしばらく進んで消えてしまった。
その様子をぼんやりと眺めながら、自分もこの波紋のように消えてしまえればいいのにとひとりごちる。――まあ、そんな願いが叶うのなら私は今頃こんなところにはいないのだが。

私の住んでいた村は、先の天候不順により作物がほとんど育たなかった。日照りが続いていなごが発生し、ほぼ全ての作物が全滅、村は飢饉に喘いでいた。さらに治る見込みのない流行り病に冒された村の人たちは、もうどうすることもできずにいた。思考すらろくに回らない。そうしたなかで考えられた打開策が、生け贄というやつだった。
村の近くにある湖にいるとされている龍神さまに生け贄を供え、村を助けてもらおうと考えたのだ。日照りで作物が不作なのも、あの湖におわします龍神さまが怒ってらっしゃるからで、生け贄を捧げればきっと龍神さまも怒りを鎮めるに違いない。
そうして、生け贄に選ばれたのが私だ。身なりを整えてから村の人に湖に連れられると船で湖の中心あたりまで進み、自分たちを恨んでくれるなと呟いて私を湖に落としたのである。ご丁寧に両手足を縄で縛られ、その縄は重りの石が括りつけられているから一度沈んでしまえばもう水面に上がることはできない。
薄暗い水底で苦しさに耐え切れずになんとかしようと身をよじったところでどうにかなるはずもない。がぼがぼと空気を吐いているうちに私は死んでいった。

死んでいった、はずなのである。
気がつけば私は柔らかい布団のなかにいた。布団のそばにいた赤い男の人が、湖から私を助けてくれたらしい。そうして彼の話を聞いているうちに、ここが私の住んでいるところと違うことが分かった。事情を説明して身寄りがいないと言えば、ここに住んでいいと笑った。
そうして、私は今、真田さまという方のお城に居候させてもらっている。

水が跳ねる。ここで死んだはずなのに私は生きている。生きていると、常に親のことを思い出した。私がいなくなってから村はどうなっただろうか。龍神さまが願いを聞き入れて下さればいいのだけど。でも、死なければいけないはずの私が死んでいないのだから、もしかしたらまだ村は飢餓に喘いでいるかもしれない。
何より悲しいのが、私がこの世にまだ生を受けていることだった。ここが浄土ならまだ安心できた。しかし、真田さまが言うには違うというではないか。生きていれば親や村に未練がある。一体なんのために死んだのか分からない。殺してくれと頼んだこともあったが、駄目だと一蹴されてそれ以降は全く黙殺されてしまった。

何故私が生きているのか、なんのために龍神さまに捧げられたのか、村は、親はどうなったのか、知りたくてもできない。でも、もしかしたらという淡い希望を胸に、私はこうして毎日この湖を訪れている。

「なまえ殿」

かさかさと草の触れ合う音と土を踏みしめる音。背後からかけられた声に返事はしなかった。それでも声の主は負けじと何度も私の名前を呼ぶ。しばらくして根負けするのはいつも私だった。
はあ、と本人に聞こえないようにため息をついてから、後ろを振り返ることなく返事をする。

「なんでしょうか真田さま」
「また、こちらにおられたのか」
「城の人には一応断ってから来ましたよ」
「城の者と言うなら、主である某に言うべきではござらぬか」
「言ったら駄目だって言って部屋に閉じ込めるじゃないですか」
「当たり前だろう」

やや語気を強めて真田さまが答える。閉じ込めるってところは否定しないんですね。そうひとりごちて、またひとつため息をついた。
それっきり長い沈黙が流れ、私は再び湖の水を掬ってはこぼすという作業に集中することにした。真田さまはそんな私をついて盛大にため息をついた。これ見よがしにため息をつかれて、気分が悪くならない人間はいない。彼は何が言いたいのだろう。私の考えを見抜いたように、真田さまが口を開いた。

「――いつまで昔のことに執着なさるのか」

ぽた、と指先についた水が滴り落ちた。柔らかい土を踏みしめる音が聞こえ、次第に近づいてくるのが分かる。やがて水面に真田さまの姿が映った。眉を寄せて、心底不機嫌そうだった。

「後ろばかり見ておられないで、少しはこちらに目を向けては下さらぬか」
「……執着しているのは、真田さまではございませんか」

そうこぼして振り返る。何か表情を変えてくれることを期待したのだが、そんなことはなかった。未だ不機嫌そうな顔をする真田さまはじっと私を見ていた。

「私に執着して、何になるのです」

私を拾ってくれた日から、真田さまは私を手の届く範囲より遠くに置くことを嫌った。部屋に軟禁されるなんてしょっちゅうだし、彼の許可なくては誰かと話すこともできない。
私はそれが嫌だというわけではないが、好きでそんな状況に身を置くほど物好きでもない。しかし、真田さまが私を養ってくれている以上わがままを言うわけにもいかないのである。

「――確かに、そうかもしれぬ」

うつむき加減の真田さまが静かにそう呟いた。

「俺はなまえが欲しい」
「は……」
「なまえ殿はここにおればもとの場所に戻れると思うておられる。しかし、戻り方すら分からないのであれば土台無理な話。――いや、なまえ殿があちらでされたように湖に身を落とせば真実、戻れるやもしれぬ。だがそんなこと某が許すはずもなかろう」
「何が、仰りたいのですか」

真田さまの言葉が理解できない。よく分からない悪寒が体を駆け巡った。

「過去に執着するのを止め、前を、某を見て下さらぬか」

私を見つめるその真摯な眼差しに、思わず顔を逸らした。見返していれば、何かよくないことが起こるような気がしたのだ。
そんな私に、真田さまが悲しそうに柳眉を下げる。このとき初めて真田さまの不機嫌そうな顔以外の表情を見た。特に感情が揺さぶられるわけではないが、執着心が強いのは私ではなく真田さまの方だと思う。

うつむいたまま水面をかき混ぜる私を見て、真田さまがぽつりと呟いた。

「いっそ、俺の子を孕ませてでも繋ぎ止めてやろうか」

ほらね、私の言う通り。



隣り合わない背鰭


(121214)
真田氏を書くと、何故かいつも長くなる不思議

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