いろいろ | ナノ



図書室に本を借りに行った帰り、教室へと戻る途中のことだった。目的の本がなかなか見つからず、今日やっと見つかったので浮かれながら廊下を小走りで走っていた。
突き当たりを曲がったところで目前が急に暗くなり、危ないと思ったときには廊下にしりもちをついてしまった。

「いたっ!」
「っ、ごめんね、怪我は?」
「あ、いや……特には」

浮かれすぎて周りを確認せずにいたところ、出会い頭に先生とぶつかってしまったらしい。見ない先生だ。きっちりとしたスーツに淡い小麦の髪の毛が綺麗で、すらりとした男の先生だった。

「どこか痛むなら保健室に連れて行きたいところなんだけどね、あいにく僕はここに来たばかりだから――まだ部屋の配置には疎くて」
「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」

ははあ、転勤したばかりだから見覚えがなかったのか。納得してその先生をちらりと盗み見る。目が合って微笑まれた途端、悪寒が体を駆け巡った。
私が落としてしまった本を先生が拾ってくれたときも、その笑顔を直視できなくなってずっと俯いていた。

「それ、じゃあ、授業が始まるので」
「うん。気をつけて」

我慢できずに背を向けて走り出す。教室に戻るまで、あの視線はずっとついてきた。

あのときぶつかった先生は工藤先生というらしい。新しくこの学校に転勤してきたスクールカウンセラーで、たった数週間で女子たちからの絶大な人気を得ていた。
正直に言おう。私はあの先生が苦手な部類に入る。微笑まれたときのあの顔が、怖いのだ。気を許せば何かに捕まって逃げられないような、そんな感覚に陥る。本能から危険を感じているのだと思う。でなければ、全てを拒むほどあの先生を遠ざけたりはしないはずだ。

「ねえねえ、今日の昼休みにさあ、カウンセリング室行かない?」
「……遠慮しとく」

移動教室のため友人と廊下を歩きながらぶっきらぼうにそう答えると、友人はひどく驚いていた。はぐらかしてもしつこく追及してくる友人に苛立ちを覚えたそのとき、再び目の前が真っ暗になった。思わずそこから飛び退くと今度は慌てすぎて足がもつれ、倒れてしまいそうになったところを半ば抱きとめられるように掴まえられる。誰かなんてすぐに分かった。掴まれたところから広がる悪寒。間違いなく工藤先生だ。ぶわっと冷や汗が滲み出る。

「君とはよくぶつかるなあ。大丈夫?」
「……どうも」

軽く笑いながらそう尋ねる先生に、私は目を合わせずにやっとそれだけ答えた。友人と先生が談笑するのを怯えながら黙って聞く。未だ先生は私を放してはくれない。楽しそうに談笑する二人の傍らで、私は俯きながらじっと固まっていた。先生は友人と話しているはずなのに、その視線が絶えず私に送られているような気がして怖かった。
その日から、私にまとわりつくような視線を感じるようになった。授業中でも休み時間でも、登下校中でも武者震いを起こしてしまいそうになるあの視線。視線を感じるたびに背後や辺りを見回してみても、もちろん私を見ているような人はいなかった。

視線がまとわりついてくるようになってから数週間。私はひどく疲れていた。とうとう家の近くにまで感じるようになり、最近では食事も味が感じられない。親や友人に言ってみても軽くあしらわれてしまうばかりだ。怖くて気持ち悪くて、今すぐにでも泣きたい衝動に駆られる。

そんなことが続いてしばらく経った日の放課後。部活の友人を見送り、私は教室でひとり机にぐったりとうなだれていた。今日は丸一日、あの視線を感じられずにいたのだ。溜まっていた不安や恐怖から久々に解放され、疲れきっていた体を休める。

「こんな日がずっと続けばいいのに……」

心の底から漏れた小さな呟きは広い教室に溶けて消えた。そのときだ。

「――っ!」

背筋を伝う悪寒に、体が強張る。あの粘りつくようにしつこい視線が私を包んだ。視線の出どころを探すためとっさに頭を上げる。そこにいたのは、

「――工藤、先生……」

開け放した入り口にもたれるようにして立っていた工藤先生だった。先生はあの笑みを浮かべている。途端に武者震いがした。ここにいてはいけない。

「……あの、わたし、失礼します――」
「人間というのは、必ずどこかに変質的な部分を持っている」

早くその場から離れたくて言った挨拶を被せるようにして放った先生の科白。あまりに唐突すぎてぽかんとすると、先生がにっこり笑って小首を傾げた。夕陽に染まった小麦の髪の毛がさらりと流れる。また、悪寒。
「これは僕の持論なんだけどね。君はそうは思わない?」
「あの、私」

こつこつと靴音を響かせてゆっくり近づいてくる先生を見上げながらも、私は動けずにいた。金縛りにあったみたいに筋一本動かせない。脳が送る危険信号が、うまく伝達できていない。

「全てが平凡であるわけがない。君の友人が実は重度のアクロトモフィリア――手足切除者愛好で、夜な夜な誰かの手足を切断しているかもしれない。君の担任は犯罪を犯すことが楽しくて、頭の中がそれでいっぱいかもしれない」
「そんなこと、あるわけ」
「誰がそれを決めるの?」

先生がまた笑う。冷や汗が背筋を伝って、血の気が引いていくのが分かった。

「君は相手の全てを知っているわけじゃないでしょ?誰もが持っているそれは、自分自身が気づいていないだけかもじゃないか」
「なに、言って――」

とうとう私と先生の距離は軽く手を差し出せば触れるくらいまでとなった。先生は相変わらずの貼りつけたような笑みで、さらに恐怖心が強くなる。この人は私にそんな話をして、いったい何が言いたいのだろう。

「僕もきっと、変質的な部分を持っている。……ねえ」

先生の細長い指先が、私の頬をかすめた。背筋が粟立つのが分かって、それなのに目を逸らせなかった。
いつも遠くから感じていたあの絡みつくような視線を、直に感じている。

「僕は存外、根に持ったり、執着心が強い方なんだ」

そんなこと私に言ってどうするの。言葉にならなくて、そのフレーズが頭を何度もよぎる。寒い。頭が痛い。

「欲しいものは必ず手に入れる。絶対に」

そっと頬を撫でられて、次の瞬間には腕を掴まれていた。もう息をすることさえ難しいような気がして、いっそのこと死んでしまえたらいいのにと思う。
取り込まれたら終わり。もう全てが色を失っていくように感じて、そこで私の世界は暗転した。



籠鳥は握り潰してこそ可憐


最後に見た工藤先生は、とても恐ろしくて綺麗な笑みをしていた。きっともう私は逃げられない。



(120816)
おい……工藤先生ってどんなキャラだったっけか……

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