「だーから言ったじゃないですか〜私は不審者じゃないって」
「だから信用できるかって言っただろうが。くそっ、あの女……」
お兄さんは忌々しそうに舌打ちをすると、ぴったりと閉められた襖を睨んだ。
「お前のおかげで俺ァ明日から“イカれた男”だっていう噂が立つじゃねぇか」
「私のせい?」
「全部お前のせいだ」
そう言ってお兄さんさんは刀を振り上げる。抵抗する間もなく、お兄さんは私に向かって刀を振り下ろした。
「え、ちょ、ちょっ……!」
月光に反射した刀の光が、最期に私の見た光景だった。
「――……あれ?」
ゆるゆるときつく閉じていた瞼を上げる。そこには、あのお兄さんの姿があった。私はまだ生きている。
良かった……と息をつく間もなく、不意に手首を縛りつけていた縄が軽くなった。え、と腕を動かすと、両手が解放されている。びっくりしてお兄さんを見ると、ふんと鼻を鳴らしたお兄さんが刀を鞘に納めるところだった。
「勘違いするなよ。お前を殺さなかったのは解せねぇことを解決するためだ」
「はあ……」
ともかく助かったのだ。縛られていた手首にはうっすらと痕が残っている。それをさすると、お兄さんは襖に向かって歩き始めた。そして勢いよく襖を開ける。
「……お前にはどう見える」
「どうって……」
襖の向こうはつぎはぎだらけの鉄板の壁だけだった。冷たい電灯が無機質な壁をさらに冷たく見せている。思った通りのことを言うと、お兄さんはまたふんと鼻を鳴らして襖を閉めた。そして今度は私に向かって襖をしゃくる。こっちへ来て襖を開けろということだろう。
ふらふらと立ち上がりながら襖へ向かうと、私は恐る恐る襖を開ける。そこにあったのは、
「あ……」
旅館の廊下だった。まだ電気はついているらしく、淡い橙の明かりが床や壁を暖かく照らしている。これに驚いたのはお兄さんだった。お兄さんは唖然としながらゆっくりと部屋を出る。辺りを見回して、和紙の貼られた壁にそっと触れながら口を開いた。
「ここは、どこだ」
「へ?……あ、私が泊まっている旅館です」
「……」
お兄さんは壁に向かいながらじっと何かを思案しているようだった。なんて声をかけて良いものかと考えあぐねていると、突然後ろから声をかけられた。
「どうしたの?廊下でぼーっとしちゃって」
「!」
そこにいたのは女中の一人だった。名前は確か……う、うめ……梅吉さん、梅吉さんだった気がする。驚きのあまり声が出せないでいると、梅吉さんは首を傾げて頭にかけられたタオルで頭を拭きながら言う。
「もうすぐ消灯だからゆきちゃんも部屋に戻ったら?」
「え、あ、うん……でも梅吉さん……」
「私は梅木よ」
「すいません梅木さん……その、あの……見えない?」
何が?と首を傾げた梅木さんに慌ててお兄さんのことを説明しようとするが、それは苦笑いをした彼女に止められてしまった。
「きっと疲れて見間違えたんじゃない?ゆっくり寝て、休んだ方がいいわよ」
苦笑を浮かべる梅木さんに、私は黙って頷くしかできなかった。
お兄さんの部屋に戻った私たちはお互い黙りこくったままだ。うーんと唸ってみたところで解決するわけでもなく。唸っているうちに眠くなってきた。思わずうとうとしていると、頭を固いもので強く叩かれる。よく見れば刀の鞘だ。
「痛い」
「寝てるからだろ」
「何か分かったんですか」
「それなりにな」
「え、なら教えて下さいよ」
「断る」
「なんで!?」
「まだちゃんとした証明が立てられてねェからだ」
言ってる意味が分からない。首を傾げてお兄さんを見ていると、お兄さんはため息をついて立ち上がった。
「……この話は明日だ。俺ァ寝る」
「ああ、明日ですね。――明日?」
つい顔をしかめてしまった。するとお兄さんはどうしたと私を見る。それに慌てて首を振ると、私も立ち上がった。
「なんでもないです。……私も寝ようっと」
そう言って襖を開ける。そこには旅館の風景が広がっていた。廊下に出ると、そうだ、とお兄さんを見る。
「私、ゆきっていいます」
「知ってる。さっきあの女が言ってたな」
「お兄さんの名前は?」
これから長い付き合いになりそうだし、と付け足すと、初め驚いていたお兄さんはやがて喉でくつくつと笑いながら口を開いた。
「――高杉晋助」
それが、私と高杉さんの奇妙で不可思議な出会いだった。
(101213)