「あの……決して怪しい者じゃないです」
「どうだかなァ」
そう鼻で笑った男の人は、細長い棒――多分煙管とかいうやつだ――をくわえる。月明かりに照らされながら紫煙を吐くその姿はひどく色っぽい。くそ、私もあんな風になりたい!そんな私は後ろ手に縄を締められて床に横たわっている。
見間違いかを確認するために襖を開けただけなのに、何故こんな目に合わないといけないんだ。そもそもどういうことだ。なんで女将さんの息子の部屋がこんなことになっているのだろう。本来なら豪雨で雨雲に覆われている夜空が、今では大きな満月と星空が見える。時折さざ波も聞こえるし、きっと近くに海があるんだろう。――あの旅館の近くに海なんてないのに。
わけが分からなくて混乱していると、男の人がゆらりと立ち上がった。そして何をするかと思えば――腰に下げてあった刀を鞘から抜いているではないか。殺される。本能がそう叫んでいた。目を合わせれば頭の先からつま先にぞくぞくと痺れが走り、冷や汗が噴き出す。これを殺気というのだろう。
「で、テメェは誰だ?幕府の犬の回し者か?のこのこと俺の部屋に入ってくるたァ、いい度胸じゃねェか。……いや、とんだ間抜けか」
そう言ってにやりと笑う男の人は、刀の切っ先で私の首付近をつつく。地味に痛い。
「わ、私はただ興味本位で隣の部屋の襖を開いただけなんです……」
「ほぉ……それで、本当は?」
「だからそれが本当なんだってば!」
叫んだところで、私はしまった、と内心呟いた。彼の右目が、獲物を捉えた獣のようにギラリと光ったからだ。殺気が強くなったともいう。
「本当に本当なんです……!たまたま隣の襖が気になったから開けてみたらお宅の部屋だったんです!まさか違う人の部屋に繋がってるなんて……どこでもドアか!」
そこまで言って、私は固まった。――今、なんて言った?自分が何を言ったのかさえも覚えていないところは放っておくとして。さっき私は“違う人の部屋”と言わなかったか。それなら辻褄が合うんじゃないだろうか。最初と全く違う息子さんの部屋も、天気の違いも、この人がいる理由も――。
「どこでもドアか!」
「うおっ」
私と同じように考え事をしていたらしい男の人は、いきなり叫んだ私に小さく肩を跳ねさせた。……かわいいことするなこの男。
「有り得ないけど辻褄も合うぞ……うん、合うぞ!」
「てめぇ……なに独り言言ってやがる」
男の人は機嫌を悪くして切っ先を突きつける。それに謝りながら、私は男の人を見た。
「お兄さん、縄を解いて下さい!私がただの一般人であることを証明したいんです!」
「断る」
「なんでだよォォォ!」
「お前が信用ならねぇからだろうが」
「くそっ、平田のあんちくしょうよりムカつく。ていうかここから生きて帰って来れたらマジあの男殴ってやる」
ぶつぶつと呟いていると、突然あの襖が開かれた。そこに立っていたのは女将さんでも女中さんでもない。随分と派手な格好をした金髪のお姉さんだった。おおう、この位置だとパンツ見える。
「晋助様、明日のことで――晋助様、一体何を……」
「見て分かんねェか。侵入者を排除するところだ」
「え!」
「侵入者……?」
顎でしゃくりながらそう言ったお兄さんに驚く私とは裏腹に、お姉さんは不思議そうに首を傾げた。その視線は刀の切っ先、つまり私を見ているはずだが、お姉さんは私と目を合わせようとしない。私ではない何かを見ているようだった。例えば、そう、空気みたいな。
「晋助様、あの……大変言いにくいことなんスけど……」
「どうした」
しばらく黙っていたお姉さんは、顔をしかめるとやがて信じられないようなことを静かに言い放った。
「……そこには誰もいないっスよ?」
一瞬、周りの空気が凍った。お姉さんもそれを感じ取ったのか、あたふたし始める。しかしながらびっくりするのはこっちの方だ。さっきお姉さんは、この部屋には誰もいないと言った。しかしこのお兄さんにはちゃんと私が見えている。一体どうして。襖のことといい、不可思議な疑問がまた一つ増えた。
「どういうことだ来島。誰もいねェって……確かにいるだろうが。貧相な女がここに」
「貧相!?スレンダーの間違いでしょうが!」
「それのどこがスレンダーなんだよ。鏡を、現実を見ろ」
「こんの野郎……!」
「晋助様……」
はっとして来島と呼ばれたお姉さんを見ると、お姉さんさんは悲しそうな目でお兄さんを見ていた。
「晋助様、疲れてるんスね?だから幻覚なんか……」
「幻覚……?」
「おい、来島」
「何も言わなくていいっス!私には分かるっス!それに例え晋助様がそんなことになっても、私は一生ついて行きますから!」
失礼しましたァァァと泣きながら行ってしまうお姉さんを見ながら、私はぽつりと呟いた。
「頭……大丈夫……?」
(101203)