どうにでもなれ。そう自棄になりながら走っていたら石に躓いてこけた。思いきり地面とコンニチハした。我ながら無様だと思う。ゆっくり上半身を起こすと、とろりとした生暖かいものが鼻を伝っていくのが分かった。言わずもがな、鼻血である。本当に無様だ。いや待て鼻水かも知れないぞとちょんとその液体を触ってみる。やっぱり鼻血だった。
指先についた赤い液体を見てると、いったい何が私をセンチメートル、間違ったセンチメンタルにしていたのかと不思議に思えてきた。そして蘇る、ついさっきまでの私の奇行。もう本当に恥ずかしい。このままじゃ本当の意味で故郷に帰れなくなりそうだ。とにかく家に帰ろうと立ち上がったところで、ここがどこだか分からなくなってしまった。いわゆる迷子だ。
「……故郷で迷子って酒の肴にもならないって……」
とりあえず鼻血を流したまま道端に突っ立っているのもアレなので、付近を詮索してみる。すると近くに古びた旅館を見つけた。建築そのものは古そうだが、どこか品を感じる。ああ、これが老舗旅館というのか、と呆けた頭で考えていると、入り口から桶と杓を持った着物姿の女性がやってきた。打ち水でもするのだろうか。ふと、その女性と目が合った。その瞬間女性が目を見開かせた。なんだなんだと訝しげにしていると、女性が声を上げた。
「あなた……どうしたの!」
「へ?――あっ」
鼻血、と呟く前に女性が私の顔を覗き込む。一応手で鼻から下は隠していたのだが、あっさりと退けられてしまった。
「痛い?やだ、どこかでこけてしまったのかしら。ここらへんは道が整備されてないから……」
着物姿の女性はよく見ればそれなりにお年を召してらっしゃるみたいだ。私の母と同じくらいだろう。だがしかし綺麗だな。遠くから見ても近くから見ても、若く見える。きっとこの旅館の女将さんだろう。オーラと気品からそう見た。
「大丈夫?あらあら……」
「いや、あの、大丈夫れす」
「大丈夫じゃないでしょう。とにかく、うちにでもお上がりなさいな。その汚れた服も綺麗にしないと」
「いえホント、お気遣いなく……そうだ、ティッシュ恵んで下さい」
「さあさ、早く入って。暖かいお茶も用意するから」
「すいません私の話聞いてました?」
見かけによらず女将さん(仮定)は押しが強い人のようだ。押しの弱い私はあっという間にぐいぐいと旅館の中に押し込まれ、あっという間に暖かいお茶をご馳走になっていた。鼻にはティッシュを詰め、汚れた服も今洗濯してもらっている。ちなみに、代わりにと渡された服は私には一回りも二回りも大きい。まさか女将さんがこの服を着るなんてこと……。
「ごめんなさいね、それ息子の服なの。やっぱり大きいわねえ」
あるわけないですよねー。
しかし息子さんの服を勝手に拝借しても良いのだろうか。すると女将さんは私の意志を汲み取ったのか、困ったように笑ってみせた。
「息子はここ最近帰ってこないから、少しくらい使っても分からないわよ」
「なんか……すいません。お仕事もあったのに」
「いいのいいの。どうせお客様なんてめったにこないんだから」
な……なんて太っ腹な……。ぱちぱちと目をしばたいていると、ぱらぱらと屋根を叩く音に気がついた。どうやら外は雨が降っているらしい。急いで家に帰らなければ、と慌てて腰を上げると、それを見た女将さんがやんわりと止める。
「この様子じゃ、すぐに本降りになるわよ。しばらくここにいるのがいいと思うけど……」
「大丈夫です。傘貸してくれませんか?」
「あら、それならいいのだけど……」
女将さんはそこで一度言葉を切ると、首を傾げる私に静かに言った。
「――あなた、迷子じゃなかった?」
その言葉を聞いて、私は再び腰を下ろすことになったのである。
(101116)