いつかの君に優しい世界で | ナノ
悲劇もそのうち腐る


あのとき、先生が優しいと思ったのは本当のことだ。しかし今では『怖い』とさえ思う。もちろん先生が優しいのだろうというあの気持ちは残ってはいるのだが、放課後の一件で『怖い』という感情がそれをはるかに凌駕していた。
あの目を見てはいけない。見てしまえばすべてを見透かされて逃げられなくなる。そんなことあってはならない。もし全部を知られてしまったら、私は──。

はっとして顔を上げる。玄関のドアが開閉される音でようやく我に返った私は、慌てて浴槽から出ると風呂の扉にそっと耳を当てた。
騒がしい足音や物音はない。なら戻ってきたのは母だ。安堵のため息を漏らすと、今度は急いで風呂から出て着替え始める。その音を聞きつけたのか、珍しく上機嫌な母がリビングから声をかけてきた。

「ゆき〜?帰ってたのお?」
「うん、お風呂入ってた」
「なら母さんもう夜は戻らないからね〜。ご飯はいつも通り自分で支度しなさいよお」
「分かってるって」

母は上機嫌だと少しだけ声音が上がって、間延びした声になる。助かったとひとりごちてリビングに向かうと、化粧を直している母がいた。そんな母に自分から声をかけることなく自室に足を運ぶ。階段を上がっていく途中で母がまた話しかけてきたが、適当に返事をすると鍵をかけて部屋に籠もった。倒れるようにベッドに横になる。
ご飯を作る気なんてさらさらない。母がこれから出かけるならなおさらだ。いつあいつが来るかも分からないのに、ご飯なんて食べている暇はない。

ドアの開閉される音に、母が出て行ったのだと気づく。それを聞いてようやく私は本当の意味で安堵するのだ。
はあ、と二酸化炭素を肺から吐き出すと、ふと机に置かれた袋が目に入った。先生からもらった湿布だ。

「……湿布、貼らなきゃ」

ぽつりと呟いて起き上がる。先生は怖いが、その先生の厚意を無碍にするわけにもいかない。しかも、もし湿布を貼らなかったと分かれば先生がどんな顔するか分からない。きっと絶対零度の冷たい眼差しを寄越して無理やり貼ろうとするだろう。
緩慢な動作で湿布を貼りながら、もう保健室に行くのはやめようと心に誓った。なるべく、先生とは関わりたくなかった。

***

「ゆきちゃん、大丈夫?」
「……うん」

おかしい。つい昨夜、保健室には行かないと心に誓ったはずである。それなのに何故、私はこんなところにいるのだろうか。

「軽い捻挫だな。しばらく安静にしてりゃ治るだろ」
「……」

そう言いながら氷嚢を足首に当てる先生。私は椅子に座って俯いたまま動かずにいた。
何故こんなことに。口のなかでもう一度そう呟く。

今日の体育は球技で、私はいつものように目立たないところにいたはずだ。それなのにいつの間にか競技に参加することになって、いつの間にか誰かの足に引っかかって転倒して、いつの間にか保健室に連行されていた。わけが分からない。でも、保健室までついてきてくれた彼女の先生への接し方を見るに、まあそういうことなのだろう。そういえばあのとき、誰が保健室へ付き添いに行くかで少し揉めていた気がする。
ため息をついて捻挫した足首を見下ろす。氷嚢をあてがいながら軽く動かすと、少し痛んだ。

「あんま無茶すんじゃねえぞ。悪化したらどうする」
「……これくらい平気です」
「莫迦が」

むすっとしてそう言うと、先生が呆れた表情で私を見た。馬鹿、なんて教師に罵倒されたのは生まれて初めてだ。

「捻挫は軽そうに見えてかなりやられてる場合もあるんだよ。無理に動けば悪化だってする」
「……」
「そうだよゆきちゃん、先生の言う通り無茶は禁物だよ。今はゆっくりしてないと」

先生の言葉に黙り込むと、名前しか知らない子が、さも心配そうに私の顔を覗き込む。教室じゃ水野さん、としか呼ばないくせに、こういうときは仲良し面するのかと苦笑した。
彼女に返事をすることなくじっと床を睨みつけていると、先生がふと彼女に視線を向けた。

「お前、いつまでここにいる気だ」

え、と彼女の笑顔が凍りついた。目を泳がせてしどろもどろになる彼女を、先生は冷たい目で眺めている。

「それ、は……ゆきちゃんが心配だったし」
「ならもう安心しただろ。軽度の捻挫、しばらく安静にしてりゃ治る」
「でも、歩くの大変そうだし、手伝わないと」
「無茶は禁物だが、これくらいなら大概のことなんざ一人でできる」
「とっ……友達だしっ」
「なら本人に訊くか」

今まで蚊帳の外だった私と彼女の、え、という声が同時にこぼれた。彼女の方は若干の焦りが感じられる。
「どうなんだ」と先生が促し、ぼんやりと先生と彼女を見比べる。彼女は柳眉を寄せながら何かを懇願するようにこちらを見ていた。だが、普段は陰で馬鹿にするくせに、こういうときばかり都合よく私を友達だとのたまう人にかけてやる優しなんてあいにく持ち合わせてはいない。
彼女を一瞥してまた床に視線を戻すと、私は呟くように答えた。

「……別に、そういうのいらないです。都合の良い友達とかになった覚えもないし。授業に戻ってもらっても構いませんよ」

彼女が息を飲むのが聞こえた。先生の無言の圧力もあり、彼女は保健室から出て行ってしまった。不機嫌そうな足音が廊下に響く。出て行く際に感じた鋭い視線は、たぶん気のせいではないだろう。

彼女を友達だなんて思ったことなど一度もない。きっとこれかもそうだろう。それは彼女も同じだ。
仕方のないことなのだ。こうなってしまったんだから、それは受け止めなくては。現実なんて所詮こんなものだ。紆余曲折あって最後に笑える人もいればそうでない人もいる。私の場合は明らかに後者だった。

ふ、と自嘲気味に笑って、私は健全な方の足で床を軽く蹴った。



13.10.16

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