いつかの君に優しい世界で | ナノ
きみが人と呼ばれるまでに


進路指導室に通い詰めてもうどれくらいになるだろうか。未だになんの活路も見出せないまま日にちが過ぎていた。もしかしたら本当に就職先が見つからなくて、あの家に住み続けなければならないのではと思うと涙が出そうだった。
資料や求人票を漁りながら、ふと、何をやってるんだろうと思うときがある。見つかるはずのない就職先を探して、焦りばかりが募って現実だけが伴わない。視野が狭くなっていくのが分かる。徐々に感じる息苦しさに、何度喉元を掻き毟りたくなっただろう。

この間は、とうとうバイト中にそれを指摘された。その日はなんの手応えもない日々に疲れた担任が、地元での求人に目を向けてはどうかと言われた日だった。
私の体調を心配した旦那さんの、気分が悪いなら早引けする?という気遣いに対し、家に帰りたくない一心で夜更かしのせいで寝不足だのと嘘八百を並べてその場をごまかした。
自分を心配してくれる人に対して嘘をつくことが苦しい。けど本当のことを言えるはずもなく、無理に愛想笑いを浮かべてその場を凌ぐしかなかった。

そして今日も成果をあげることができないまま家に帰ってきてしまった。
このところ母がどうしても働きたいなら地元で働けとうるさく、男は相変わらず家に入り浸っている。あからさま視線はいつものことで、距離感も近い。近頃はトイレで吐く行為が慢性的になってきた。

靴を脱いで足早に部屋へと向かおうとしたところで、運悪く男がリビングからやってきた。私を見つけると嫌な笑みを浮かべる。

「おかえり。バイト終わり?」
「……」
「お母さんは今日遅いみたいだよ。僕もこれから出掛けるから、留守番しててね」
「……分かりました」
「それとも、一緒に行く?ゆきちゃんにも関係あることだし」

思わず眉を顰めて男を見る。男は人の良さそうな笑みを顔に貼りつけたまま続けた。

「市役所だよ。そろそろ、ゆきちゃんの戸籍を移そうと思って」

心臓が大きく跳ねた。
──そうだ、再婚しても私のはまだ動かさないようにと言ってからそのままだった。それを移すということは、つまり。

「やめて……」
「進学のときに手続きが煩わしいからってことで移さずにしておいたけど、それも嘘だったわけだし、もうそのままにしておく理由もないだろう?」
「い、嫌です──」
「嬉しいよ、やっとゆきちゃんと本当の家族になれるんだね」
「やめて!」

もう何も聞きたくなくて、思わず叫んだ。しんとした廊下に私の荒い呼吸だけが響く。

「……そんな我が儘を通せると思ってるの?家族になるんだから当たり前のことじゃないか」
「いやだ……あんたなんか、家族じゃない……」
「強情だなあ。それはそれで興奮するけどさ、僕も我慢強いほうじゃないんだよ」

何を言ってるのか分からなくて男を見上げる。男はにこりと笑って、それから素早く私の両肩を掴んで壁に押しつけた。あまりの早さに抵抗する暇もなく、気づいたときには逃げ出すことすらできなかった。
込み上げる怖気と嫌悪感に、血の気が引く。身体が震えた。

「僕だって、その気になればいつでもこういうことできるんだよ。それを敢えてしないのは君のためじゃないか」
「やめて……」
「あーあ、やっぱりあのとき手加減しないで抱いておけば良かったかな。……そうだ、あのときの続きでもする?君のお母さんは仕事で遅いしね」
「う……」

眩暈がする。逃げたいのに身体が硬直してどうにもならない。悪寒と恐怖で手足の感覚が消えた。
抵抗すらままならない私を見て男は小さく笑うと、掴んでいた両肩を離した。その瞬間膝から崩れ落ちる。腰が抜けて逃げることができない。泣きたかった。

「ね?言っただろう?」
「……っ、」
「全部、君次第なんだよ」

しゃがみ込んだ男が私の顔を覗き込む。咄嗟に顔を逸らすと小さな笑い声が聞こえた。この状況を楽しんでいるのだ。悪態のひとつでも吐きたいのに恐怖と吐き気のせいで声が出ない。
ふと、男が何かを思いついたように言った。

「……そうだな、君の態度次第では、戸籍の件は見送ってもいいよ」

はっと顔を上げる。男は愉快そうな笑みを浮かべていた。

「戸籍を移してほしくないなら、それなりの態度を見せてよ」
「……」
「ね。嫌なんだろ?ちょっと頭を下げるだけだ」

唇を噛む。こいつにしおらしい態度をとるくらいなら死んだ方がましだ。けれど、戸籍はどうしても死守したい。戸籍を守るためなら少しの間言うことを聞けばいい。でも男の言う通りになんてなりたくない。かといってこれ以上こいつとの縁を持ちたくなかった。

長い間逡巡し、私は男の甘い誘惑に陥落した。たった数秒、我慢するだけだと自分に言い聞かせる。たった、数秒。
歯を食いしばる。拒絶する心をなんとか殺して、嫌がる身体を無理やり動かして、ゆっくり頭を下げた。

「……お願いします」
「何を?」
「っ戸籍は、移さないでください」
「“お父さん”」
「っ……!」
「ほら、言ってごらん。“お父さん、お願いします”。簡単だよ?」
「――」
「今すぐ役所に行ってもいいんだよ、僕は」
「……っ、お、とうさん、おねがい、します……」

今すぐ吐きたかった。気持ち悪い。胸が痛い。心臓を血だらけにされた気分だった。なんでこいつを父と呼ばないといけないんだ。
男は満足そうに「いいよ」と返すと、私の頭を撫でて立ち上がりリビングへと消えていった。

顔を上げる。戸籍は守れた。けれど、他の大切な何かが壊れたような気がした。あいつを父と呼ぶなんて。──あいつが父だなんて!
今すぐ死にたかった。それが無理ならこの汚い口を裂いてしまいたかった。
震える自分の身体を抱きしめる。涙がこぼれた。もう、何もかも終わった気がした。



16.12.05

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