浮世離れの水槽
遠くで鐘が鳴っている。ああ、授業が終わったんだなとぼんやり思いながら、再び眠りにつこうと寝返りを打った。
「おい」
「……」
「5限目終わったぞ」
「……」
「起きろ」
やや語尾を強くする先生の声に、沈みかけていた意識が徐々に浮上してくる。お腹はまだ鈍い痛みを伴っていた。
ため息と布のこすれる音が耳元で聞こえる。瞼を上げると、先生がポケットに手を突っ込みながらこちらを見下ろしていた。
普段ならここで驚いて奇声のひとつでも上げるところだが、あいにくお腹の痛みの方が驚きよりも強かったためろくに反応をとれない。とりあえず「おはようございます」とだけ返しておいた。
「まだ痛むか」
「ちょっとまだ痛いです……」
手のひらを出され、慌てて布団からすっかりぬるくなってしまった湯たんぽを取り出す。先生はそれを受け取るとカーテンの向こう側に消えてしまった。
「いつもこんなふうに痛むのか」
「いえ、何故だか今月だけ妙に痛んで……」
「薬は?」
「お昼ご飯を食べてからちゃんと飲みました」
「そうか」
シャ、と軽い音とともにカーテンが開かれ、先生が姿を現す。暖かい湯たんぽを差し出されそれを受け取ると、不意に先生が口を開いた。
「──痛みがひどくなる原因に心当たりは?」
「心当たり、ですか」
「痛みの大半はストレスだろ。家庭内でも学校でも、何か心身に負担がかかることでもあったんじゃねえのか」
「……」
ぐっと言葉に詰まる。この沈黙が肯定を意味するなんて分かりきっていたが、それでも口に出すのだけは嫌だった。そんな私を、先生は呆れるでもなく見下ろしていた。
やがて踵を返してデスクに戻ると、置いてあったカップに口をつけながら時計を見る。次の授業まではまだ時間はあるみたいだ。
「──どうする?」
「え?」
何が言いたいのか分からず首を傾げた。どうするって、何を。
「授業が受けらんねえくらい痛むんなら、早退するしかねえだろ」
え、と言葉に詰まる私をよそに、先生はすらすらと続けていく。
「我慢して出ても構わねえが、それでつらくなるのは本人だからな。まあその状態なら授業を受けることすらまず無理──」
「いっ、嫌です!早退なんて、絶対にいや!」
「……」
「あ……ご、ごめんなさい……」
はっとして慌てて謝る。先生はじっと私を見たまま動かない。気まずい沈黙が続いて、先生はきっと怒ってるんだろうなと、なんとなくそう思った。
やってしまった。初対面なのに気を遣ってくれた相手に対して怒鳴ってしまうなんて、あまりにもひどすぎる。申し訳なくて情けなくて、授業に出ると言おうと口を開くが、それを遮るように別の声が被せられた。
「あの、私」
「親の都合でも悪いのか」
「いえ、そうでなくて、その……」
「出たい授業がこのあとにでも?」
「違います。でも授業には──」
「じゃあ単に家に帰りたくないだけか」
「う、」
先生の自分本位に進んでいく会話にたじたじになってしまう。最後の独り言ともとれる呟きに、また口ごもってしまった。
そんな私を見て先生は大きく息を吐くと、デスクから用紙を引っ張り出した。何やら文字が書かれているそれに、今度は何かをさらさらと書き込んでいく。そんな先生をぽかんとして見つめる私。
「あの、先生……?」
「これを、担任か次の授業の受け持ちの先生に渡して荷物をまとめて来い」
「ええと、一体どういう……」
「早退するんだろ」
「っ、だから早退は」
また思わずかっとなって口調を荒げる私を、先生は手のひらを上げて制する。言いたいことはまだあったのだがしぶしぶ口を噤むと、先生が何かを書いていた紙を私に手渡した。そこには活字で『早退届』と書かれている。
「──『発熱により授業を受けられない状態のため、早退させます』……って、私、熱なんてないですけど……」
「こうでも言わないと早退なんざさせてくれねェだろ。とりあえず荷物をまとめて戻ってこい。放課後まで横になってりゃだいぶ痛みも引くだろうよ」
「え……放課後までここにいていいんですか?」
「問題ねェ。時間になれば家に送るから安心しろ」
「送るって、そんな!流石にそこまでお手数をかけるわけには」
「早くしねえと時間なくなるぞ」
送る、という言葉にびっくりして断ろうとしたのだが、先生に遮られてうやむやになってしまった。
慌てて脱いでいた制服を身につけると湯たんぽをお腹に当てたまま教室に急ぎ、痛むお腹に顔をしかめつつも荷物を鞄に突っ込んでいく。そんな私を見て周りが好奇心の目を向ける。何やらひそひそと話していたが、それさえも耳に入らなかった。最後に職員室に向かい先生に早退届を渡すと、先生は「お大事に」とだけ言って返してくれた。
そのまま保健室に戻ると、先生はつまらなそうに書類をめくっていた。尋ねてみたところ引継ぎの書類がたくさん残っているらしい。やや不機嫌そうだった。
「ほんとにこんなことして大丈夫なんですか?」
「生徒が早退したくないなんらかの理由があるんなら仕方ねえだろ。別に深入りしようとも思ってねえから安心しな。話す話さないは本人の自由だ」
「はあ……」
「分かったんならさっさと寝ろ。冷やすと体に毒だぞ」
「はい」
確かにお腹が痛かったので、大人しくベッドに向かう。荷物はベッドの足元に置いておいた。
カーテンを閉め、湯たんぽを抱えながら再び制服を脱ぐ。カーテン越しに聞こえる紙のこすれ合う音に耳を傾けながら目を閉じた。
先生は見た目も少し怖いし言い方もぶっきらぼうだが、その気遣いや行動を見るに、もしかしたら本当はすごく優しい人なのかもしれない。
そんなことを考えながら私はベッドに潜り込んだ。ストレスの原因のことは、当分考えたくなかった。
13.09.29