いつかの君に優しい世界で | ナノ
迷い子は四畳半に眠る


あれから一週間が過ぎ、とうとう明日から自宅学習期間に入る。数日ある登校日を除けば、それなりに長い休みだ。
休みに皆が浮かれている間も、私はこの一週間毎日求人をかき集めたのだが、成果はひとつも挙がらなかった。
既に新卒募集は来ていない。地元でならいくつか見つけはしたが、もう募集を締め切っているのがほとんどだし、そもそも地元で就職したって意味がないのだ。私の本来の目的はあの家を出ることなのに、これでは家から職場に通うはめになってしまう。それでは地獄が続くだけだ。
放課後、今日まで一緒に就職先を探してくれた担任が難しい顔をしてうなだれる。

「すまんなあ、水野。なんとか連休前までには見つけてあげたかったんだけどな」
「いえ……」
「地元でならいくつか候補がないわけじゃなかったんだけどな、水野の希望は違うだろ?」

申し訳なさそうにする担任に、胸が痛んだ。お調子者で、高杉先生の嘘に丸め込まれて委員を勝手に変更させられたりしたが、決して悪い人ではなかった。責任感の強い人だし、こうやって親身になって新しい就職先を探してくれる。もし母のあの電話がなければ、彼の先生としての評価も下がらなかっただろうに。
それを思うと、申し訳ないのはむしろ私の方だった。クラスのほぼ全員が進路や就職先が決まっているというのに、土壇場で内定が消えた私のせいで先生の評価が悪くなってしまった。

「──すみません。迷惑かけてばかりで」
「ん?……ああ、いや、気にするな。そもそも悪質ないたずら電話が悪いんであって、水野が気に病むことじゃない」

そう屈託なく笑う彼を見て、さらに心苦しくなる。そのいたずら電話の張本人が私の母なんです──とは、口が裂けても言えなかった。
今日はもう暗いから帰りなさいと言われ、指導室を出る。結局、連休中もここへ通い詰めることになりそうだ。正直なところ、家にいたくない私としてはありがたい話ではある。

靴を履いて外に出た途端、凍てつくような寒さに身震いした。あまりの寒さに癒えていたはずの左膝が僅かに軋む。
マフラーを巻き直し、襟元をかき合わせて俯き加減に歩く。手袋を忘れたため外に出て5分と経たずに指先の感覚がなくなってきた。今日は一段と寒い。
薄暗い歩道を歩きながら、ふと、今日まで高杉先生とかち合うことはなかったなと思った。

はじめは私の方が先生を避けていたのだが、私が警戒するまでもなく彼から接触してくることはなかった。遠くで先生を見かけることはあっても、すれ違うことすらなかったのだ。
あの朝礼の日、先生と目が合ったときは怒っているのだと感じたのだが、そうではなかったのかもしれない。私のただの勘違いで、事情が事情なだけに後ろめたい気持ちでいたからそう受け取ってしまったのだろうか。そうだといい。私の思い違いだったのならそれに越したことはない。
けど、この違和感はなんだろう。先生と関わることがなくて良かったと安心する半面、どうして何も言ってこないのだろうと思う自分がいる。私の予想とは反した先生の行動に、肩透かしをくらったような気分だった。

はあ、とため息を吐いたところで家に到着した。家の明かりが漏れていて、それだけで憂鬱だった。どちらも嫌だができることなら母だけが居てくれるといい。男よりはましだ。
期待を込めて扉を開けるも、脱ぎ捨てられた男物の靴以外に靴はない。さらに気分が滅入る。
物音を聞いてか、リビングから男がひょっこり顔を出した。私を見た途端にっこりと笑みを浮かべてこちらにやってくる。それが気持ち悪くて逃げ出したいのに、足が地面にくっついたみたいに動けなかった。

「ゆきちゃんおかえり。遅かったね」
「……」
「こんなところで立ち止まってないで、リビングおいでよ。あったかいコーヒー淹れようか?」
「……」
「うーん、そろそろ返事が欲しいなあ」

俯いて廊下をじっと睨みつけたまま黙りこくる私を見てわざとらしく困り顔をする男は、そういえば、と話を切り出した。

「就職、だめになったんだって?お母さんから聞いたよ。残念だったね」
「……っ」
「でも、もともとは進学するって話だったよね。騙すようなことしちゃだめじゃないかな」
「っ、それはっ」
「それは、何?」
「……!」

反論しようと顔を上げたすぐそこに男がいて、悪寒とともに身体が強張る。乱暴されかけたときの恐怖心が蘇り、喉が引きつった。

「お母さんはゆきちゃんのことが大事だから家を出て行ってほしくないんだよ。僕だってゆきちゃんが大好きだから、ずっと家にいてほしいと思う。それはそんなにいけないことかな」

違う、あんたが抱いているのは純粋な好意なんかじゃないはずだ。屈折したおぞましい感情だ。そう返したいのに声が出ない。かすれた呼吸音がもれるばかりで、喉が焼けつくように熱い。

「今回のことは残念だと思うけど、仕方ない部分もあるよね。今から新しい就職先を探すなんて無理だし、これまで僕たちに嘘ついてたことを反省するにはちょうどいいんじゃない?」

そう言って私の頭を撫でる。猛烈な吐き気で目眩がした。

「っ、触らないで……」

ようやく出た声はあまりにも小さく頼りなかった。男は薄気味悪い笑みを浮かべて私との距離をさらに縮めてくる。

「なんか、そそるなァ」
「いやだ……っ」
「そんな警戒しなくたって、何もしないよ。そろそろお母さんが帰ってくる時間だし」

だから安心しろとでも言うのか。それは暗に、母が帰って来なければ何かをするつもりだったと言っているように取れるのに。思わず唇を噛む。気持ち悪い。寒気と目眩でどうにかなりそうだ。
男がくすりと笑って、肩に手を置いた。そこから広がる、不快感。反射的にそれを振り払う。

「そんなに怒らないでよ。さっきも言ったでしょ?僕はただゆきちゃんが大好きで、仲良くしたいだけなんだから」

コーヒー淹れるからリビングにおいで、と言い残して、男は踵を返した。奴がリビングに姿を消した途端、走って自分の部屋まで逃げる。部屋に転がり込んで、震える手で鍵をかけた。慣れた作業のはずなのに、恐怖と焦りで時間がかかった。なんとか鍵をかけると、今度は這いずって部屋の隅に移動する。腰が砕けて立てなかったのだ。
全身が震えていうことをきかない。冷えきった身体からさらに血の気が引いて意識が遠のきそうだった。あいつに触れられたところが気持ち悪くて仕方ない。あいつなんかに触られたくない。名前を呼ばれたくない。

──ゆき。

はっと思い出した。
ずっと前、もう遠い昔のように感じるあの日、私は名前を呼ばれた。そうだ。いつも水野と呼ぶのに、あの夜だけは確かに言ったのだ。私を、ゆきと呼んだ。

「──先生……」

涙がにじむ。冷たい身体を抱きしめてうずくまる。

……変だ。あれだけ避けていたのに、今は無性に会いたいと思っている。
先生の声を聞くと落ち着いた。頭を撫でられると安心した。あのときみたいに、また頭を撫でてほしい。
──また、私の名前を呼んでほしい。
暗い部屋のなかで、ただそれだけを切に願った。



17.03.25

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