いつかの君に優しい世界で | ナノ
不揃いな噛み痕


身体に負担をかけないよう気をつけ、先生のいる場所へ近づかないよう神経をすり減らして、ようやく放課後がやってきた。進路が確定している生徒たちの楽しそうな会話を背に、教室を出る。そのまま進路指導室へ行こうと思っていたが、ふと足を止めた。

先生が私の何かに気づいたなら、その何かを聞きだそうとするのではないだろうか。今日は私がずっと先生を避けていたから鉢合わせることはなかったが、進路指導室に籠もりきりになってしまえばそうはいかなくなる。
そこまで考えて、小さく苦笑した。先生が自分から私のところにくるなんてこと、今までを振り返ってみればあるはずないのに、随分と自意識過剰だ。
けれど、私には負い目があるから一度そんな可能性を思い浮かべてしまうとどうしてもその状態を避けたくなる。相手が相手だけになおさらだ。

「……」

しばらくの間逡巡し、私はそのまま生徒玄関の方へ足を進めた。

***

バイト先の喫茶店はちょうど客の少ない時間だったらしく、奥さんがカウンターでのんびり本を読んでいた。ドアベルの音に顔を上げて私を見た途端に柔らかく微笑む。

「あら、いらっしゃい。珍しいお客さんね」
「こんにちは」
「学校は終わり?」
「はい。家にいても暇なだけだから、ここに」
「そうなの。ゆっくりしてね」

なるべく奥のテーブル席を選んで座る。バイトとしてではなくひとりの客としてここへ来ることは滅多にないため、なんだか変な感じがする。
夏休みのときだって、母にバイトを辞めさせられたというのに毎日ここへ通うなんて考えられず、保健室に行ったのだ。客としてテーブルについているという妙な感覚にそわそわした。

「何か飲み物はいかが?」
「ええと、カフェオレください」
「はいはい」

奥さんが軽やかに準備を始める。その心地良い音に耳を傾けたまま、手持ち無沙汰でメニューを手に取り眺めてみる。
何か食べようかと思っていたが、なんだかそんな気分になれない。旦那さんの作る料理はどれも文句なしに美味しいのに、今日は食欲が湧かないのだ。食べたい気持ちはあるのに身体はそれを求めていないというもどかしい状態に、ため息をついてメニューを戻した。

奥さんが手際よく作ってくれた温かいカフェオレを口に含み、味わう。喉を通って胃に落ちたとき、ようやくちゃんと味のあるものを摂取したような気がした。
昨日からろくに食べていなかったし、お昼は少し食べたような記憶はあるのだが、それが何かさえ分からない。そのせいか、温かい液体がお腹からじんわり沁みて広がっていくのが心地良かった。

ひと息つけたところで、なんの気なしに周りを見渡してみる。
入り口近くの新聞を読み耽るおじさん、カウンターに座る小洒落た格好の女性、窓側のサラリーマンはこの間と同じ人だろうか。既視感のある人だ。頬杖をついてぼんやりと手元の本に目を落としている。ただ、その本のページは一向に進んでいない。考え事だろうか。
それを見つめながらカフェオレを口に含む。ふと、今日の担任との会話が頭に浮かんできた。

担任には、今から新しい就職先を見つけるのは困難だと改めて言われた。既に新卒募集の求人は来ていない。確かに絶望的な状況だった。進学に関しても難しいだろうと言われたが、もともとするつもりもなかったしどうでもいい。問題なのは、この状況を打開する方法がないということだ。
就職は困難、進学は絶望的。身動きのとれなくなるこの時期を狙って母は内定先に電話をしたんじゃないかと勘ぐりたくなるくらいのタイミングに、どうすれば良いか分からなくなっていた。
ひとつはっきりしているのは、おそらくこのままだと私は一生母のもとで暮らしてゆかねばならないだろうということだ。家を出る口実もないのだから当たり前だ。
それだけはどうしても回避したかった。今の状態がずっと続いていけば、きっと私はおかしくなってしまう。自分という人間を守るためにもあそこから早く出ていかなければいけない。

しかし、母はそんな私が気に入らないようだ。
せっかく抑圧して屈伏させて自分の言うことをきくように育てていたはずだったのに、いつの間にか反発して自分から離れようとしていたなんて。
──許さない。昨日母がそう言っていたように、本心はその一言に尽きるだろう。縛りつけて監視してねじ伏せたいのだ。自分のものだから、何をしても構わない。けれど、私物が意思を持って反抗するなんてことがあってはならない。自分の好きなようにしたい。征服したい。支配下に置きたい。殺さない程度に苦しめたい。

ドアベルの音にはっと我に返った。新しいお客さんが入ってきたみたいで、奥さんが笑顔で相手をしている。
ずっと考え込んでいたらしく、先程までいた女性とおじさんは既にいなかった。
考え耽っていたせいか、目がチカチカする。まばたきを繰り返しながら窓際に視線をやると、まだあのサラリーマンはそこにいた。手元の本はやっぱり進んでいないように思う。
どうしてか身体が冷えてしまっていて、すっかりぬるくなってしまったカフェオレを飲み干すと席を立った。

店を出るとき、恐ろしい表情で長いこと考え事をしていた私を見ていただろうに、奥さんは何も言わずいつものように笑って見送ってくれた。
外はとっぷりと暮れていて、気温もぐっと下がっていた。ぬるいカフェオレでは冷えた身体を暖めるには不十分だったらしく、凍てつくような風に身震いする。

今朝の足の痛みがまたぶり返してしまいそうな寒さのなか歩いて、ふと、『飼い殺し』という単語が頭に浮かんだ。本来は違う意味で使われる言葉だが、文字通り捉えるなら今の状況はまさにその通りだ。あまりにも傑作でつい口元が歪む。

「──いっそ殺してくれれば楽なのに」

ぽつりと呟いた言葉は、冷たい風に掻き消された。



16.12.17

back


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -