いつかの君に優しい世界で | ナノ
隣人が愛した劣等感


学校へ行くころには、普段通りとはいかないまでも身体もちゃんと動くようになった。お風呂でしっかり暖まったから筋肉の強張りも消え、痛みも薄くなってよろけることなく歩けるまでには回復した。
それが一時だけの見せかけで、あとから響くようなのものだとしても、とりあえずは安心だった。ろくに歩けず足を引きずって周りから不審な目で見られるよりはずっとましだ。確か今日も自習ばかりで、移動教室や体育もなかったはずだからずっと座っていれば問題ない。要は家に帰るまで持ちこたえられれば良いのだ。

家を出ると冷たい外気が制服の隙間から入り込み、せっかく暖まった身体を冷やしていく。ぶるりと震えてから歩き出した。
幸いなことに今日は快晴で、歩いていくうちに身体の冷えはなくなった。痛む部分に負担を与えないよう気をつけて歩く。特に脚には神経を使わなくてはいけない。ようやく学校に着くころにはもう疲れきっていて、妙な達成感から大きく息を吐いた。



寒い。床の冷たさが足先から浸食してきて、じわじわと体温を奪っていく。それは周りも同じなようで、皆しきりに身体を揺すったり身震いしていた。
昨晩、頭をぶつけたせいか今日が朝礼のある日だということをすっかり忘れていた私は、それを思い出したとき小さく絶望した。
朝礼をするということは、あの冷えきった体育館で校長の長話を立ちっぱなしで聞かなければならないということだ。痛めた身体に無理のないよううまくペース配分して来たというのに、これじゃ全く意味がない。今朝の二の舞になってしまう。

そしてその予想通り、朝礼が始まってから登校中に暖まっていた身体はあっという間に冷え、身体を支える膝は次第に痛みを訴えてくるようになった。特に左が痛い。もうつま先は感覚がなくなっていた。
大会か何かで勝った部活に証書や記念品を渡し、つまらない講話をつらつらと話し始める。しかも彼は話し下手で、その内容もあっちへ行ったりこっちへ行ったりと脱線するものだから、余計に長くややこしくなる。だいたい、校長お気に入りのティーカップの柄がなんだというのだ。

そんなことだから、ようやく解放されてもぎこちない動きになってしまった。痛い方をかばって歩けばみんなにバレてしまう。だからといって無理をすればさらに脚を痛めてしまう。どうしようもなくなって泣きたくなった。
内心ヒイヒイ言いながらなんとか自然に見えるよう歩いていると、不意に視線を感じて立ち止まる。周りを窺うとひとりの人と視線がかち合った。
──高杉先生だ。
全身の毛が逆立つような感覚に、咄嗟に顔を背けた。

普通、養護教諭は保健室に残っているものだと思っていた。そこで教室に行けない生徒や、気分の悪い生徒の相手をしているんだとばかり思っていたのだ。だから今まで朝礼で先生を見かけなかったし、それが当たり前だと認識していた。
しかし、この同じ空間に先生は居る。しっかりと私を見据えていて、その痛いくらいの視線を今も感じる。

養護教諭はめったなことでは朝礼に参加せず、保健室にいるものだというのは私の勘違いだったのかもしれない。
もしそうなら、私が知らなかっただけ、気がつかなかっただけで、先生は今日のように私を見ていたのだろうか。ずっと観察していたのだろうか。
そう考えると、背筋がぞっとした。先生には黙っていることや隠していることが多すぎて直視できない。そして、そんな私の全てを見抜かれていそうなことが一番怖かった。

先生の視線から逃れるように、うつむいたままゆっくりと歩き出す。今ここで不審な動き──例えば足を引きずるだとか、どこか痛むような素振りを見せるだとか──をすれば、きっとここぞとばかりにやってきて私を問い詰めるに違いない。それが嫌だから、ことさら慎重に歩を進めた。
見られているのだと思うと身体が変に緊張して神経も過敏になる。背中、特にうなじのあたりが張りつめてピリピリする。体育館を出てからも先生の視線はまだつきまとっているような気がして、でもそれを確認するために振り返るなんてできなかった。

緊張したまま教室に着いて、ぎくしゃくしながら椅子に座った途端、張りつめていた神経が緩みどっと疲れが押し寄せた。机に突っ伏して何度も深呼吸をする。途中、小さく呻いた。喧騒の中でなら私がこんなことしたって誰も気にしない。こういうとき、普段からひとりきりで良かったと思う。誰かに見られたりするのは、苦手だ。
担任がやってきて、改めて学年やクラス単位での連絡事項を伝えていく。顔だけ上げてその内容をぼんやり聞きながら、しばらくの間は保健室の近くを通るのをやめようと決めた。

先生の視線はいつだって苦手だ。全てを見透かされそうで怖い。だけど、今日は一段と恐ろしく感じた。
さっき目が合ってしまったとき、その時間は一秒にも満たないほど一瞬の間だったけれど、確かに感じた。瞬時に理解した。
──先生は怒っている。



16.06.30

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