いつかの君に優しい世界で | ナノ
よるべない怪物


床の冷たさで目を覚ました。
重い目蓋を上げると視界いっぱいにフローリングが映る。あまりの寒さに身が凍りそうだった。小さく身動きする度に関節がぎしぎしと音をたて、ひどく強張っていた。

母に殴られてから記憶がないが、どうやら気を失っていたようだった。カーテンの隙間から漏れる薄い光が部屋をぼんやりと形作っている。この明るさだと、今は夜明けだろうか。ということは、かなり長い間私は気絶していたことになる。その間にあの男が部屋に来なくて良かった。
そこにまず安堵して、それからあまりの寒さに身震いした。家に帰って着替える前に母の折檻があったから、もちろん制服のままだ。たいていの制服は機能性よりもデザイン性を重視した作りだから当たり前のように寒い。

とりあえず身体を暖めたい。幸いにも床で就寝していたため腕を伸ばせばすぐ毛布が手に入る距離だ。しかし、昨夜母に手酷くやられ、尚且つ寒さで凍えきった身体では、腕を伸ばすことはおろか上半身を起こすことさえ至難の業だった。
息も絶え絶えになんとか毛布を掴むと、力の入らない腕でそれを引き寄せくるまる。一晩中冷たい空気に晒されていた毛布ははじめ身も凍るほど冷えていたが、しばらくするとじんわりと温もりを帯びて身体を包んだ。

身体が暖まって思考に余裕ができると、今度はこれからのことで頭がいっぱいになる。
母の暴走によって私の進路は閉ざされた。今から次を探そうにも時期が遅すぎて難しい。母にばれてしまったことで遠くへ行くなんてできなくなったし、家を出るなど言語道断だった。

──いっそのこと、卒業と同時に逃げ出してしまおうか。でも、逃げ出して、そのあとは?衣食住すら保障されていないのに、うまくやっていけるとは思えない。
いや、実際、やろうと思えばできるだのろう。自分の口座からお金を引き出せるだけ引き出して、なるべく遠いところへ行って、そこで住み込みでもなんでもいいから働く場所を確保する。そこまでは私にだって思いついた。しかし、現実的に見てみるとかなり安易な発想だ。
まず口座の残高がそこまで多くない。母が入れる生活費すら最近は滞っていて、バイトをして貯めていたぶんを切り崩してなんとかやりくりしていたのだ。遠くへ逃げ切る前に残金を使い果たしてしまうかもしれない。
しかもこのご時世、そう簡単に仕事が見つかるかどうかさえ分からないのだ。仮にうまく逃げられたとしても、住み込みで働ける場所が見つかるという望みは薄く、そうなれば住む場所が必要になる。今の手持ちのぶんから計算すると、どんなに頑張ってもそこで躓いてしまうだろう。それくらい厳しかった。

はあ、とため息をついて身をよじる。身体は暖まったが今度は殴られたところが痛み始めた。もう、何をしたってツいてない。あまりの惨めさに笑いが込み上げてきて、それから目頭が熱くなった。

**

しばらく毛布に顔をうずめ、雀の鳴き声が聞こえはじめたころにようやく動くことを決意した。
リビングから物音はしない。母も男もまだ寝静まっているのだろう。起きるにはまだ早い時間だし、今なら大丈夫だ。

まず身体を起こしてみる。未だに強張りが解けず軋む腕に力を込める。肩と、背中に痛みを感じる。そのままゆっくり立ち上がろうと脚に力を入れたとき、左脚がひどく痛んで床に手をついた。きっと殴られたあと冷えきった身体をろくに暖めないうちから動こうとしたせいだ。もう少し休めば、立ち上がって歩くことはできるだろう。
再びため息をついて天井を仰ぐ。窓から差し込む光は、徐々に明るみを帯び始めている。

やっとの思いでリビングに向かうと、予想通りそこにはまだ誰もいなかった。安堵して今度は風呂場に向かう。昨日はお風呂に入れなかったため、身体が気持ち悪くて仕方ない。いつ男が現れるか分からないので、長湯はしないつもりではいるが、もし何かあったら熱湯でもかければいいや、と半ば投げやりな気持ちで服を脱いだ。

ふと、洗面台に備えつけられた鏡に映る自分が目に入った。私が気を失っている間も暴力は続いていたようで、記憶にあるもの以外にもいくつか痣がある。しかし、顔はまずいと思ったのか、顔だけは──美醜は別にして──綺麗だった。
青白い身体はあちこち醜く腫れ痣だらけだというのに、顔は生まれてから一度も傷を作らず綺麗なままだ。ちぐはぐな姿に苦笑する。
鏡の向こうの私に触ろうと手を伸ばす。冷たいガラスが指先に触れ、おぞましいほどに変色した皮膚に鳥肌が立った。同じように鳥肌を浮かべる鏡の中の私に、せめて虚構の中だけでもいいから綺麗でいてほしかったと切実に思った。

こんな醜い私を、誰が見てくれるだろう。表面上では計れない、醜悪で汚い内面の私を知ればきっとみんな離れていく。──いや、そもそも近づく人すらいないのか。
そうひとりごちて、苦笑する。咄嗟に頭に浮かんできた人のことは、すぐに頭から掻き消した。可能性を探すまでもなく、有り得ないことだったから。



16.05.29

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