いつかの君に優しい世界で | ナノ
出来損ないの神様


母のやけに上機嫌な様子を思い出しながら、散り散りになった資料やパンフレットをぼんやり眺めているしかなかった。あまりに唐突すぎる出来事に直面すると、人はこんなにも頭が働かないものなのだと初めて知った。
あの電話をしたのは母だった。しかし、それが分かったところで私の内定が取り戻せるわけでもない。ただひたすら呆然とするしかなかった。
だから、後ろから近づいてくる足音も全く耳に入ってこなかった。

「ゆき、ご飯できたよ」
「っ……!」

突然聞こえた声に、思わず身体が震えた。ゆっくり振り返る。入り口に、静かな笑みを湛える母が立っていた。

「あ……」
「どうしたの?早く着替えて。ご飯冷めるでしょ」

いつものように怒鳴り散らしたりしない母が逆に恐ろしい。ただにこにこしているだけなのに、ここまで身体が震えるなんて。

「……どう、して」
「──何が?」

喉が引きつってうまく声が出ない。呼吸が浅くなって目眩がする。

「どうして、あんなことしたの?」
「……どうして?」

母の声が一段低くなった。口角が下がって、目だけが笑った状態のまま、三日月のように細い。
その低い声に脳が危険信号を発した。

「どうして、はこっちの科白じゃない?ゆき、母さんには進学するって言ってたよねえ?近場の大学に行くって」
「……」
「最初にひどいことしたのはゆきだよね?母さん騙してたんだもんね。だったら、何されてもおかしくないんじゃない?嘘吐いたのはゆきだよねえ」
「……でも、何もここまですることないじゃない……」
「……まさか、ゆきは自分は悪くないとか思ってる?母さんだけが悪いって」
「そうじゃないけど、でも」
「でもでもうるさいっ!」

急に上げた怒鳴り声に身を竦めた。思わず頭を抱える。それに苛立ったように母が頭上で舌を打つのが聞こえた。

「あんたねえ、自分だけが被害者だなんて思わないでよね。進学するって言われてたのに裏切られた母さんの気持ち分かる?どれだけ悲しかったと思ってるの?」

わざとらしくため息をついて私を見下ろす母に、傷ついたような表情は見られない。
母は私が自分の監視下から外れること、自分が長いこと騙されていたことに腹を立てているのだ。激昂する理由はあれど、傷つく要素などひとつもない。──いや、実際は傷ついていたのだろう。正確には、傷ついたのはきっと彼女のプライドだ。そんな、くだらなくてちっぽけなもののために、私の未来が奪われてしまったのだ。

「ゆきが悪いんだからね?母さんの言うこと聞いてれば、こんなことしなかったんだから」

嘘だ。母の言う通りに生きていたって、難癖つけて私を痛めつけるに決まってる。それが分かっていたから、危険だと知りつつも今まで頑張っていたのに。

「もう我が儘言って母さんを困らせるのは止めて──」
「……我が儘なのは、そっちでしょ……」
「……なあに?」

顔を上げて母を見据える。初めて見せる私の犯行に、母がすっと目を細めた。

「自分の我が儘で周りを振り回してるのはそっちでしょ」
「……どういうこと?」
「だってそうじゃない。家から出るな、自分の言うことだけ聞けって、そんなの我が儘以外の何者でもない」

口から言葉が勝手に出ていく。今まで抑圧されてきたものが、一気に溢れて止まらない。

「私は母さんのおもちゃじゃない。人形じゃないの。押さえつけられれば不満が溜まるし、叩かれれば痛いの。口の聞けない人形じゃないからやりたいことだっていっぱいあるの。それを、……それを無視して自分のやりたいことやってたのは、母さんの方じゃない!」
「うるさい!」
「っ!」

母の拳が振り上げられ、頭を庇った腕に当たった。鈍い痛みを感じる前に、今度はお腹を蹴られる。蹴られた衝撃に耐えられず身体がバランスを崩し、床に身体を強かに打った。
男性より筋力が劣るとはいえ、女性だって本気で蹴れば痛いものは痛い。蹴られた部分からくる衝撃と、鈍い痛み。こういうのは、耐えるのが一番だ。歯を食いしばって声が出そうになるのをこらえる。

「今まで育ててきてやった親に対してその態度はなんだ!あいつとおんなじ目であたしのこと睨みやがって!虫酸が走る!」
「……っ、」
「お前のその態度が気に入らないんだよ!懐きやしないし可愛げもないし、お前なんか引き取るんじゃなかった!」

髪の毛を鷲掴みされて、顔を無理やり上げさせられる。ひどい顔の母が私を見据えていた。

「今までさんざん手をかけてきたんだから、これからはその恩をあたしに返さないとねえ、ゆき?」
「……」
「あんたのためにあたしは自分の人生捨てて生きてきたんだよ?それなのにゆきは何もしてくれないわけ?あんたのせいで人生めちゃくちゃになったのに、あんただけが幸せになるなんて許さないからね」

そうだよね?と甘い声で問われる。先ほど蹴られたときに頭をぶつけたせいでふらふらする。視界までぼやけてきた。
歪んだ笑みを浮かべる母を見ながら、だったら産んでくれなきゃ良かったのに──と心のなかで毒づいて、それから私の世界はぷつりと途絶えた。



16.03.01

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