いつかの君に優しい世界で | ナノ
飼い殺しの憂鬱


唐突に耳に入ってきたチャイムに、はっと頭を上げた。何度も瞬いて周りを見渡すと、周囲はもうそれぞれ下校準備を済ませ教室を出ていくところだった。時計の針は既に下校時間を差している。
いつの間にそんなに時間が経っていたのだろう。次第に静かになる教室に残り、頭を抱えてゆっくりと息を吐いた。

昼休み終了ギリギリまで粘った担任は、出て行ったときよりたくさんの冷や汗を浮かべて進路指導室に戻ってきた。その顔は真っ青で、混乱している私でさえ心配したほどだ。
担任はポケットからくしゃくしゃのタオルを取り出すと額の汗を拭いながら重々しく口を開いた。

先方が言うには、やはり私の名前を名乗って人事の人に取り次ぎ、内定を断ったということだった。新しく近場に就職先が決まったためだと言っていたという。
担任からも本人の電話ではないこと、恐らく誰かが故意にそのようなことをしたと思われるという旨を伝えたのだが、どういう理由であれ私に対する向こうの信用は無くなったらしかった。

『ご本人じゃないとしても、これはちょっとありえないでしょう。仮に本人に対する嫌がらせで行ったことだったとして、こんなことをされてしまうような人なんじゃ、と思いましてですね、内定を見直させていただこうと』

人事の人はそう言ったという。冷や汗を通り越して脂汗をにじませた担任は、すまん、としきりに謝ってきた。

「俺もなんとか考え直してくれるよう頼んだんだが、向こうはもう取り消す方向で決まったからの一点張りで……その、水野の私生活を疑うような言い方して……」

担任はそう語尾をくぐもらせた。きっと、口にするのも憚られるようなことを言われたのだろう。
こんな電話をしてくるくらいの人が周りにいるのだから、本人の人間性が危ぶまれる。裏では何をやっているか分からない。この先も何か問題をおこす可能性が高く、それでは信用できない。
会社は慈善事業ではない。このようなことがあったのにも関わらず取り内定を消さなかったら、今度は自分たちの沽券に関わる。仮に今回の出来事がいたずらだだったとしても、自分たちの会社におかしな電話をかけてくるような人が周りにいる新入社員など、誰だって御免被るだろう。
頭がうまく働かないながらも、私は「分かりました」と返した。喉がひどく乾いて、かすれた息しか出てこなかった。

「もう決まったことみたいだし、仕方ないです」
「でも、いいわけないだろう。せっかく決まってたのに、また企業の選び直しから始めるなんて」
「でも、実際問題そうするしかないじゃないですか……」
「──それは、その、うん……そうなんだけどな」

私以上に気落ちした担任が苦々しそうに頷く。少しの沈黙のあと、もう一度すまん、と頭を下げられた。
その姿を見て、ようやく自分の身に起こったことが現実で、夢や冗談でないのだということを身に沁みて感じたのだった。

***

それから、再び就職先を探すことになった。前に内定通知をもらい断った企業への打診もしてみたらしいが、全て駄目だったという。担任のすまなそうなその表情が私の胃を更に痛めた。

閉じていた目蓋を上げる。教室には私以外に誰もいなかった。もう一度深く息を吐いて、椅子から腰を上げる。そのまま逃げ出してしまいたかったがそうもいかない。
進路指導室も誰もおらず静かだった。それをいいことに、机は広々使わせてもらうことにした。手当たり次第に棚に並べてある求人票を手に取る。それを机に広げ、募集している会社がないか探した。
しかし、時期が時期だ。ファイルに綴られている求人票のほとんどが既に定員に達した企業ばかりで、まともに残っている企業などほぼないに等しい。
かろうじてまだ募集をかけている企業はあまり評判の良くない、いわゆるブラックというのが大半で、さすがにそこを選ぶ度胸はなかった。
つまり、今から就職活動しても卒業までに間に合うことはほぼ不可能ということだ。

ふと時間を確認して、長いこと呆然としていたらしい。窓から見える景色はもう暗い。机に広げられたファイルを眺めて、胃が痛くなった。
用意していた逃げ道が突然消えた。このままではあそこに絡め取られて私の人生は潰れてしまう。そんなの嫌なのに、逃げる手段が見つからない。凝り固まった思考回路では、どうすれば良いのか見当すらつかなかった。

ローファーに足を突っ込みながら、そもそもこんなことをしたのは一体誰だろうと考えていた。けれど、考えるまでもなく母の顔が頭に浮かんでくる。
私を敬遠するクラスメートは多いが、どこの企業に内定が決まったか知る人はいない。だからきっと彼らじゃない。
けれど、母はどうだろうか。部屋の見つからない場所に隠してはいるが、もし部屋を漁って見つけ出したとしたら。
あの人の性格上、何かの拍子に癇癪を起こしてそういうことをする可能性は多いにあり得る。近場に進学するだのなんだのと嘘に嘘を重ねてきた。怒り狂って電話のひとつでも入れるだろう。
──せっかく、逃げられると思ったのに。あともう少しだったのに。

何度目かも分からないため息がこぼれる。頭を痛めながら家に帰ると、家の灯りがついていた。それを見てさらに私の気は重くなる。帰りたくない。

「ただいま……」
「あ、ゆき〜おかえりぃ」

私の暗い声とは裏腹に母の声は明るい。玄関の靴は母のだけ。男はいないようだった。最近、男が家を空ける日が多い。

「遅かったのねえ。ご飯できるから早く着替えておいで〜」
「……うん」

母はひどく上機嫌だ。その様子に戸惑いつつも、頷いて自分の部屋へ向かう。
──もっと怒り狂っているかと思った。彼女のことだから、私が帰ってきたのと同時に殴りかかるだろうと思っていたのだが。むしろ何か良いことでもあったかのような機嫌の良さだ。
……もしかしたら、母ではないのだろうか。そうだといい。

ドアを開けて部屋に踏み込む。入り口の明かりのスイッチを手探りで探し出して電気をつける。明るくなった部屋を見て、身体が動かなくなった。

「……なに、これ……」

部屋が荒らされていた。あまりに凄惨なその状況に、思わずへたり込む。しばらくそこを見渡し、はっとなって這うように部屋の中へ進んだ。
見つからないだろうと思っていた隠し場所は見事に暴かれ、破れた企業パンフレットや資料が辺りに散らばっている。それを見て少しのあいだ唖然とし、それからその場に踞った。
──やっぱり。やっぱり、母だった。
喉が異様に熱くなる。不思議なことに涙は出なくて、嗚咽のかわりに呻き声が漏れた。感情が死んでしまったみたいだった。



16.01.30

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