いつかの君に優しい世界で | ナノ
宙吊りのラストシーン


ほぼ全ての教科を修め、このところ自習が多くなってきた。来週からはとうとう自宅学習期間──事実上の大型連休──になる。進路も、だいたいの生徒が決まりしばらくはのんびりできるため、最後の高校生活を楽しもうと、私たちの学年は間近に迫ったその休みに浮き足立っていた。
遠くから休みのあいだに遊ぶ予定を立てている会話が聞こえる。本を読み流しながら、私も休み中どう過ごそうと頭を悩ませていた。もちろん、楽しそうに会話を弾ませる彼らとは正反対の意味でだ。

夏休みのときは運良く高杉先生のところに避難できたが、今回はそうはいかない。どうにかしてあの家から逃げたいのだが、うまい理由が見つからない。
既に進路は決まり、特に学校や図書館などへ勉強したりしに行く必要はない。必要以上に家を空ければ、むしろ怪しまれてしまう。家を出るための口実が思いつかなかった。
かと言ってあの家に毎日いるのなんて御免だ。何があるか分かったもんじゃない。身の危険があると分かっている場所に居られる人間なんていないだろう。
はあ、とため息をついて本を閉じる。しおりを挟んだページは、開いたところから動いていなかった。

次の授業も自習だった。プリントをもらいそれを解いていくという、至極単純かつつまらない時間だ。後半になると教科担の先生による解説があって、それから個人的に質問のある生徒に当たっていく。
まだ試験の終わっていない生徒はそこそこ真面目だが、その大半はもう余裕のある生徒ばかりで、後半になってくるとあちこちから談笑が聞こえてくる。先生たちもそれを黙認しているのだから、別に咎められることもない。
時折大きくなってくる話し声を注意しつつ生徒の相手をして、授業終了のチャイムが鳴ると先生は手早く支度をして教室を出て行った。



昼休み、食べ終わった弁当箱を片づけ、読み進めもしない本を読もうとページを開いたとき、担任がひょっこりと現れ私を手招きした。
なんだろうと訝しく思いながらも担任のあとを追う。周りの痛いくらいの視線が気持ち悪かった。

担任が私を連れ出したのは進路指導室だった。ここには大学の資料や過去問、求人票などが揃っていて普段は常に誰かがいるのだが、今は人払いされており、部屋には誰もいない。それが余計に私の不信感を煽った。
椅子に座るよう勧められたときから何か嫌な予感がしていた。担任の顔が強張っている。努めて平静でいられるようにしているみたいだったが、口角のあたりが小刻みに動いていた。
水野、と呼ばれた声はやはり切迫しているようだった。

「水野、お前、どうして今になってあの企業を断った?」
「──……は?」

何を言っているか分からず、思わずぽかんとする。本当に、彼がの言っている意味が理解できなかった。だって、つまり、……どういうことだろうか。

「断るって……何をですか?」
「だから、内定先だよ。今朝断りの電話を入れたんだろ?さっきその企業から連絡があったよ」

担任の声音は呆れたような、少し怒っているような感じで、頭を掻きながら続ける。

「礼状も戴いたあとだったのにこのようなことになり残念です、って。向こうも少し怒ってるみたいだったし、学校側に相談もしないで勝手に……ちょっとこれはあんまりなんじゃないか?」
「え、な、なん、ちょっと、……ちょっと待ってください、え?わ──私が?断った?内定先を?」
「だからそうだと言ってるだろう。そちらの水野さんからお断りの電話が、って言われたんだぞ」
「は……?」

頭が真っ白になった。思考回路がショートしてうまく頭が回らない。頭にペンキをぶちまけられたみたいに何も思い浮かばなかった。
立ち上がりかけた腰を下ろし、ゆっくり深呼吸をする。さっき担任の言った言葉を頭の中で何度も反芻した。
……つまり、私が、自分から相手先の内定を蹴った。自分で断った。──私の内定は取り消しになった。
身体中から血の気が引いていくのが分かった。

「……私じゃありません。私、そんな電話してないです」
「え?だって向こうはお前自身から連絡があったって──」
「わたし、本当にしてません」

自分の声がひどく遠くから聞こえる。血の気が引きすぎて寒い。きっと今の私はとんでもない顔をしているのだろう。あまりにも様子のおかしい私を見て、疑わしそうにしていた担任も血相を変えていくのが目に見えて分かった。組んでいた腕をほどき、机に身を乗り出す。

「……本当か?相手方は水野ゆきだと名乗ったって言ってたぞ」
「違います、私じゃないです。私、そんなことしません」
「おいおい、マジか……」
「わたしじゃない。知りません、本当に、本当なんです。だって、違う。私じゃない……」
「わ、分かったから、水野。いったん落ち着こう、な?」

うわごとのように違う違うと繰り返す私を見て、ことの重大さに気づいた担任が慌てて落ち着かせようとする。けれど、私はそれどころじゃなかった。
あれだけ待ちに待っていた内定だったのに、あれだけ卒業を待ち焦がれていたのに、あれだけ家から離れられると思っていたのに。
身に覚えのない電話ひとつで全てが狂った。崩れ落ちた。

「水野じゃないんなら、誰だったんだ?何か知らないか?」
「知りません、分かるわけない……」
「う、うん、そりゃあそうだよな、うん。まずいぞ、困ったな」

頭を抱える担任は私以上に慌てふためいているみたいだった。ぶつぶつとしばらく呟いたあと、わたわたと椅子から腰を上げる。

「ちょっと──ちょっと先方に電話してくるからな、ここで待っててくれな。水野も落ち着こうな」

そう言ってバタバタと部屋から出ていった。その様子をぼんやり眺めながら、落ち着くのはそっちじゃないかと考える。
ひとり残された部屋で、頭を抱えた。

「私じゃない……」

何度も呟いたその言葉は、昼休みの喧騒に紛れて消えた。



16.01.13

back


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -