いつかの君に優しい世界で | ナノ
輪郭は静かに歪む


過ごしやすい季節はとうに過ぎ去り、あっという間に寒い季節がやってくる。最近は風が冷気を含んで、制服の隙間から身体を冷やしていった。長袖の季節だ。
このころになると、たいていの生徒たちの進路が決まりつつあった。既に試験を終えて合否待ちをしている生徒や、その結果に笑うか泣くかする生徒、試験を目前に一心不乱に机に向かう生徒もまだちらほらといる。
そんな生徒たち全員が、よく見ると心なしか浮ついているように見える。たぶんというか、十中八九、この先にある大きな休みが関係しているのだろう。

私たち三年生は、三学期後半に突入すると、卒業式までの間に大きな休みが入る。このころになると、たいていの科目は修業するので学ぶことはほとんどない。故に、卒業式当日やその予行練習が入っている日を除けば、ほぼ丸一ヶ月ほどが自由登校──事実上の大型の休みになるのだ。
自由登校ということなので、もちろん個人的に勉強をしたい生徒やまだ受験の終わっていない生徒たちは自主的に登校し、机に向かう。
決められた登校日には必ず学校に来ないといけないので純粋に連休が続くというわけではないが、それでももうしばらくの間は勉学から解き放たれるのには変わりない。だからこそ、誰も彼も浮かれるのだ。

今日も、合否を知らせるため担任から呼び出された生徒が小走りで教室に駆け込んできた。その表情と周りの祝福の言葉から、合格したのだろうと推測できる。拍手もあちこちから湧いていた。
その様子がちらちらと目の端に入ってきて、どうしてだか胸のなかにどろりとしたものが流れ込んでくる。何故なのか私自身にも分からず、答えの見つからない疑問に苛立って開いていた本をやや乱暴に閉じた。途端、肩に鈍い痛みを感じて思わず顔をしかめた。

冬に近づき衣替えをしたことで、最近は母の暴力も積極的になってきた。前までは半袖だったおかげであまり目立ったことはしなかったが、いまでは遠慮なく物を投げたり殴ってきたりする。
昨日は男の帰りが遅かったことに苛ついた母が怒りの矛先を私に向け、いつものように罵詈雑言を浴びせ、近くにあったマグカップで私に殴りかかってきた。私は部屋に籠もっていたのだが、ちょうどトイレに行こうとしたところを目敏く見つけられ被害を被ってしまった。
刃物を持ち出さないだけまだましかな、とひとりごちて肩をさする。もしそうなればいろんな意味で終わりだろう。

移動教室で保健室の前を通りかかり、何気なく視線をそちらにやる。汚れひとつない窓から見える保健室には誰もいないようだった。
相変わらず殺風景だなと考えていたところで、正面に柔らかい衝撃が走る。どうやら、ぼんやりしすぎていて前から来る人に気づかずぶつかってしまったようだった。慌てて飛び退くと、見慣れた白衣。内心顔を歪ませた。

「なにしてやがる」
「……すみません、ぼーっとしてました」
「ちゃんと前見て歩け」
「はい、すみません」

ぶつかって痛む鼻をおさえながら会釈して、そのまま行こうと歩き出す。しかし、足を踏み出すことができなかった。先生が私の腕を掴んでいたからだ。

「……あの、先生……?」
「睡眠はとれてるか」
「はい?」

突拍子もない問いについ間抜けな声が漏れる。その質問の意味を悟り、頷いた。

「ああ……はい。順調です」

本当は順調なことなんて何もない。母は更にひどくなるし、男だって隙あらば関わりを持とうとする。無視するにしても限度があった。
この間なんか、夜中、目を覚ましトイレに行こうとドアに近づいたとき、扉越しに人の気配を感じて血の気が引いた。明らかに母ではなかった。とすれば、あとはひとりしかいない。いつからそこにいたのだろう。とにかく、いま扉を開けてはいけないと全身が叫んでいた。その夜は毛布にくるんで眠らずに朝を待った。
そんなことが多々ある。眠れるわけがない。しかし、それだけは言うことなんてできなかった。先生に言えばどうなるか、分かりきっているからだ。

先生はそうか、とだけ返すと、掴んでいた私の腕をそっと離した。いつもならもっとあれこれ聞いてくるはずだが、今回はずいぶんあっさりしている。
その素直さが逆に怖くなり、私は逃げるようにその場から去った。ゆっくりしていたら良くないことになりそうな気がした。

目的の教室に小走りでたどり着き、席につく。急いだせいか、心臓がバクバクとうるさい。ちょうど授業開始のチャイムが鳴り、見計らったかのように先生が入ってきた。
軽口を叩くクラスメートと先生の会話を聞き流して視線を下げる。どうしてだか、先ほど高杉先生に掴まれた腕が熱を持っている。そこをさすりながら、走ったせいでうるさい心臓と火照った顔をどうにかしなければ、とずっと思案していた。



15.12.01

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