いつかの君に優しい世界で | ナノ
網膜の隣人


「げえっ、ゆきちゃんそのおでこどうしたの!」

私がバイトに出勤するなり声をあげたのは、バイト先の先輩だった。風で舞った前髪の隙間から見えた、昨日の額の怪我に気づいたのだろう。私は曖昧に笑って前髪を撫でつける。

「昨日の朝、寝ぼけて転んだときにぶつけたんです」
「ほんとにー?結構ひどいよ」
「でも今はもう痛くないですよ」
「いやいや、見てる方は痛そうだよ」

うわあ、と顔を歪める先輩にもう一度笑ってみせた。すると今度は怒ったように眉をつり上げて腰に手を当てる。

「もう、せっかくの嫁入り前の大事な身体に傷つけちゃダメでしょ」
「すいません……朝は弱くて」
「ちゃんとしてるように見えるけどゆきちゃんにも抜けてるところがあるのねー。なんか安心」
「なんですかそれ」

先輩は軽く笑い、私も乾いた笑みを浮かべる。彼女はころころと表情が変わるから、一緒にいて飽きない。激情型の母とは違う喜怒哀楽に、そばにいて飽きない存在だった。

「ゆきちゃんが厨房で良かった。本人を前に失礼だけど、やっぱりウェイターが怪我してるの見えたりしたらお客さんびっくりしちゃうから」
「そうですね」

私の勤めるバイト先は、初老の夫婦が慎ましく営む小さな喫茶店だった。近くにファミレスやファストフード店があるおかげで大繁盛とまではいかないが、それなりにうまくやっているようだ。
私はそこの厨房で、ちょっとしたデザートを作ったり料理のお手伝いをしている。ホール係にならなかったのは、面接で私が接客向きでないことを初見で看破した奥さんの采配だった。自分でいうのもなんだが、大正解だと思う。
お店はいつも特別忙しいというわけでもないが、奥さんの淹れるコーヒーがまた別格で、あまり目立たない立地というのもあり、知る人ぞ知る隠れ家的名店らしい。らしい、というのは私も働きはじめてから知った事実だからだ。あまり忙しくなさそうだし、と踏んでバイトの面接を受けた当時の私は相当甘くみていたようだ。

私が母の言いつけでここを辞めたときも、しばらくしてまた働きたいと頭を下げたときも快く頷いてくれた夫婦は本当に良い人で、たぶん常連さんもきっと二人の人間性に惹かれて来るのだろう。
私についても干渉しすぎない程度に気を遣ってくれるし、心配してくれる。まるで夢にみたような理想の両親だった。

制服に着替えて厨房に入ると、ちょうど旦那さんが注文の入った料理を作っているところだった。

「オーナー、お疲れさまです」

そう声をかけると、旦那さんが顔を綻ばせて、手を振るかわりにフライパンを煽る。
ちなみに彼は従業員全員に自分をオーナーと呼ぶよう伝えていた。その方がより喫茶店の店主ぽいから、だそうだ。それを聞く度に奥さんは呆れたように笑う。それに対し旦那さんが「僕がオーナーで、君はマスターだよ。お店と僕の。なんちゃって」と締めるのが通例だ。夫婦仲が良いようで何よりだ。

「おっ、ゆきちゃんお疲れさま。メグちゃんに聞いたけど、おでこ大丈夫?」
「ああ、はい。痛みもないし特に問題ないです」
「それならいいけど、あんまり無理しないでね。厨房の看板娘がいないと、潤いと華やかさがなくなっちゃうから」

はは、と笑ってフライパンの火を止める。お皿に料理を盛りつけている間に私がスープとサラダを用意して、それから先輩に料理を渡す。
旦那さんの作る料理はどれも美味しくて、見た目も素敵だ。私も真似したくて家で作ってみるのだけど、いまいちうまく再現できない。一度コツを聞いてみたのだが、旦那さんに「全てに対して愛情を込めることだよ」と言われて困ったことがある。愛情、と聞かれてもピンとこなかったのだ。
まさか家庭環境を暴露した挙げ句に愛情とはなんですかと尋ねるわけにもいかず、黙っているしかなかった。ただひとつ言えるのは、愛情をよく知らない私に旦那さんのような美味しい料理は作れないということだけだ。
そして今日も、彼の作る料理にお腹を空かせつつ働くのだった。

***

今日はよく働いたと思う。夕方には珍しくお客さんが多く入ってきて、ホールも厨房もいつもより忙しなく動いていた。ようやく人がまばらになったのは陽が完全に暮れたころだった。
退勤時間も迫っていたため厨房の後片づけを始めようとしたところで、奥さんが厨房にひょっこり顔を出す。

「ゆきちゃんお疲れさま。いま上がり?」
「そうですけど……どうかしました?」
「あのね、帰る前にお店にいらっしゃい。今日はよく働いてくれたでしょう。せっかくだからお茶でも飲んでいって」
「え……でも」
「いいのいいの。気を遣わないで。たいしたものはないけど、頑張ってくれたんだから」

少し戸惑い時計と奥さんを見比べる。 この時間帯なら男はまだ帰ってこないし、母も今日は遅いだろう。しかしだからと言ってお茶をご馳走になるのは気が引ける。けれど厚意を無駄にするわけにもいかない。
誘惑と遠慮の狭間で揺れ動く私に、旦那さんがにこやかに笑って言った。

「遠慮しないで、ゆっくりしていきなよ。……そうだ、今日の食材がちょっと余るし、ちょっとした賄いでも食べていく?」

その一言に、私は陥落した。なにせ、彼の作る料理は本当に美味しいのだ。



忙しい時間帯を過ぎたのか、店内は先程と比べると静かだった。奥さんにすすめられるがままにテーブルにつき、出されたカフェオレに口をつける。ブラックコーヒーの苦手な私にとって、この甘さとほろ苦さはたまらない。
ほっとひと息ついてぐるりとお店を見回す。お客さんは3組。カウンターで奥さんと会話しているおじいさんと、窓際のカップル、カウンター近くのテーブルにはスーツを来たサラリーマン。客層は広い。

カップに口をつけながら、カウンターの熱弁をふるうおじいさんとやんわりかわす奥さんをぼんやり眺める。
ちょうどそのとき旦那さんがトレーを手にやってきた。にこやかに「お待たせ」と言ってテーブルに置いたのは、賄いとは思えないほど美味しそうなランチだった。

「サンドイッチセットです。召し上がれ」
「……いただきます」

思わずサンドイッチに釘付けになる私に旦那さんが楽しそうに笑い、カウンターのおじいさんと親しげに挨拶をすると、厨房に戻ってしまった。
しばらくサンドイッチに見惚れ、それからようやく食べようとサンドイッチに手を伸ばす。
一口食べて、思わず顔が綻んだ。やっぱり、旦那さんの作る料理は美味しい。黙々と食べ続け、次にスープを飲もうとスプーンを器に沈めたとき、新しいお客さんが入ってきた。いらっしゃい、という奥さんのゆったりした声につい視線をそちらにやる。白いふわふわが揺れていた。お客さんが不意にこちらに顔を向ける。

「あ」
「……」

スープを口に運ぶ途中の間抜けな顔で、私は坂田さんと再会した。



15.10.23

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