いつかの君に優しい世界で | ナノ
柔らかな狂気


朝、カーテンの隙間から射し込む日差しがずいぶんと柔らかくなった。あんなに騒がしかった蝉も最近は大人しい。過ごしやすい季節になった。
リビングに向かうと、まだ誰もいないらしく静まり返っていた。それはそれで都合がいい。誰かがくる前に朝食とお弁当の準備に取りかかった。

男と一緒に暮らし始めてからしばらく経つが、朝に見かけたことは一度もない。まだ遅い時間に起きるのか、そもそも家にいないのかもしれない。
再婚したとはいえ、母は夜の仕事を辞めるつもりはないらしい。私個人としてもその方がありがたかった。家にずっと籠もっていてはストレスが溜まるだろうし、その鬱憤を私にぶつけられるよりははるかにましだ。
男が家にいるおかげで母が私を殴ることはないが、そのかわり男がいないときはひどく私に当たった。一緒に暮せば生活環境が変わるのは当たり前だというのに、どうして前と同じように過ごせると思ったのだろう。不思議でたまらない。

朝食を作りながら、うなじのあたりがピリピリするのを感じた。男が朝に顔を見せたことがないとはいえ、油断できない。気を抜いていたせいで後ろから近づいてきていた、なんて、笑えない。
だから、まだ頭が覚醒しきっていない朝のこの時間帯が一番警戒する。
手早くお弁当を詰めて朝ご飯を食べると、急いで自分の部屋に戻った。いつ誰がくるか分からないというのに、ここでのんびりしている時間はないのだ。
制服に着替えると、ゆっくりする時間もなく家を出た。

**

昼休みに担任に入社先を伝えると、嬉しそうに顔を綻ばせながら便箋と封筒を手渡してきた。どうやら入社先に御礼状を出さなければならないらしい。

「見本はこれで、書き終わったら俺に見せてくれな。──ああ、他の企業にも断りの手紙も出さないとだった」
「はい」
「俺の確認が終わったら、そのままポストに出しちゃっていいから」
「分かりました」

手渡された見本を眺めながら職員室を出ようとしたところで、高杉先生と出くわした。先生もここに用があったようで、脇に書類を抱えている。目を合わせることなく会釈して、そそくさとその場を去った。

放課後には全ての企業宛ての手紙を書き終え、担任からの確認ももらえた。外はいい具合に日が暮れていて、そろそろ帰ろうと学校を出る。
帰りしなに近くのポストに投函して一息ついた。これですべきことは終わった。あとは卒業まで待つだけだ。
ポストの前で卒業までの日にちを数える。──まだ数ヶ月も残っている。さっきとは違うため息が漏れ、うなだれた。まだ、こんなにも長い。

「あともうちょっと……」

**

家に帰ると玄関に母の靴があった。思わず顔をしかめる。母がいるなら顔を見せておかないと、あとで面倒だ。仕方なく重い足取りでリビングに向かうと、母は化粧中だったらしく、化粧品と香水の独特な匂いが鼻をつく。

「……ただいま。帰ってたんだ」
「またすぐ出かけるけどね」
「そう……」

母の機嫌が悪いことはリビングに入ってすぐに分かった。空気がピリピリしているし声色も低い。あからさまな態度からして男はいないのだろう。ならば殴られる前に部屋に行かなければ。
そう思い踵を返したところで、母がぽつりとこぼした。

「──あんた、最近むかつくのよ」
「……どういうこと?」

突然かけられたその一言が理解できず、思わず足を止めた。母はさらに苛立ったように続ける。

「あの人と暮らすようになってから、あんた浮かれてんじゃないの?隠してるつもり?言っとくけどあの人はあたしのなんだからね」
「はあ……?意味が分からないよ……浮かれてるわけないじゃん」
「とぼけたって無駄だから。どうせあたしがいないときにでも彼を誘ってるんでしょ?気持ち悪い」
「そんなことするわけ」
「うるさい!」

怒鳴り声とともに私に向かって何かが投げられた。肩に当たった何かは軽い音をたてて床に落ちる。足元を汚すそれは母の使っていたファンデーションだった。
母のぶっ飛んだ思考回路に頭がついていかず、ただ唖然と目の前の母を見つめる。母は私を睨みつけながら苦々しそうに顔を歪めた。

「……また、その目。あいつにそっくり」
「……」
「お前見てるとあいつ思い出すんだよ!あいつと同じ目であたしを見るな!どうせお前もあいつみたいに心のなかであたしを馬鹿にしてるんだろ?」
「してな──」
「うるさいっ!!」

ゴツ、と鈍い音がして、次の瞬間額がひどく痛んだ。その衝撃に思わずよろける。近くに転がっている瓶を見つけて、ようやく投げられたのが香水だと知った。

「あいつにそっくりなお前なんていらない!言うこと聞かないお前なんかいらない!あたしの邪魔するお前なんかいらない!お前なんか、お前なんか産むんじゃなかった!!」

半ば絶叫するように喚いて、母は家を出て行った。
騒いでいた張本人がいなくなると、リビングは驚くほど静かになる。しばらくぼんやりと突っ立っていたが、額の痛みで我に返った。
その場にしゃがみ込むと落ちた衝撃で割れたファンデーションをかき集め、香水の瓶を拾う。香水にも少しひびが入っていたようで、拾うと掌が少しぬるついた。そこから漂う強い香りに息が詰まる。
はあ、と軽く息をついて、小さく呟いた。

「やっと終わった……」


15.09.19

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