いつかの君に優しい世界で | ナノ
はらわたの牢獄


今日からあの男がうちに住むことになった。それを聞いて、トイレで少し吐いた。近頃は母も頻繁に家に帰ってくるようになって、私が心から落ち着ける時間は少ない。
母が再婚すると聞いたときはこちらがあの男の家に移り住むのかと思ったのだが、どうやら男の方がうちに転がり込んでくるみたいだった。男の家は借家だから、母の持ち家であるこの家に移る方が金銭面で楽なのだろう。
とはいえ、もともとここは父の家だ。離婚したときに父がここを明け渡したという。手続きが面倒だからと名義は父のままで、まだローンが残っているならまだ父が払っているはだ。だから母が大きな声でとやかく言える権利はない。それでもふんぞり返っていられる母の神経はよくわからない。

男がうちにやってきたとき、まだ二人が籍を入れていないと聞いて安堵した。二人のことならどうだっていいが、勝手に私関連の手続きをされては困る。
男の方で仕事関係が少しごたついているせいでなかなか入籍が進まない、と聞いたとき、チャンスは今だと思った。再婚相手がいる手前、さすがに母もそう簡単に手を出すことはないだろうと踏んだのだ。
ただ、その話をしようと切り出したときはひどく緊張した。つい最近母にバイトの許可をもらったばかりだ。バイトの次は戸籍。母の思い通りにならないような行動を何度もとって、怪しまれるのではないかと戦々恐々だった。
入籍しても私の戸籍はまだ動かさないでほしい、と言ったとき、母が眉を顰めたのを見逃さなかった。

「……急にどうしたわけ?何か不満でもあるの?」

疑るような声音で尋ねる母に、冷や汗が滲む。このときのために用意していた科白を言うのにも一苦労だった。

「いや、そうじゃなくて、その……学校の先生に世間話ってことでちょっと話したら、進学先にもう願書とか提出しちゃってるから……いま籍とか名字を変えられると何かと面倒なんだって」
「ふうん……だから?」
「だから、せめて大学に入って周りが落ち着くまでは、なるべく今のままの方がいいって……」
「そうなの」

母の探るような鋭い視線に身体が無条件に震えそうになる。不本意ではあるが、今この場に男がいてくれて本当に助かった。もし、男がいない状態でこの話を持ち出そうものなら、あっという間に私は殴られていただろう。
こういう場合、母から目を逸らしてはいけない。目を逸らすということは何か後ろ暗い理由があるからだと決めつけられ、最後にはやっぱり殴られてしまうからだ。少しでも心証を良くするためには多少我慢しなくては。

「最近ゆきはおかしなことばかり言うのねえ。これからが大事ってときにバイト始めたり、夏休み中はうちにもあんまりいなかったし……。あんた、ほんとに勉強してるの?」
「してる、よ……もちろん……。夏休みは補習に行ったりしてただけだし……バイトだって」
「あーもう言い訳はいいから。ほんっと、あんたは何かあればすぐ言い訳するんだから」

母は鬱陶しそうに羽虫を払うような仕草で手を振って、話を遮った。この様子だと機嫌が悪そうだ。まずい。失敗したかもしれない。これまで積み上げてきたものが全て壊れてしまう。
緊張と絶望で目眩がしたとき、今まで黙っていた男が口を開いた。

「──僕は、それでもいいけど」
「!」
「な……、でも、どうして……?」

驚いた母が男を見る。男は人の良さそうな笑みを浮かべて──少なくとも私にはそれが演技だと思った──、私たちを見やった。

「僕の周りにも中学のころに両親が離婚して、しかもそれが高校受験の時期でさ、いろいろ苦労してた友達がいたんだよ」
「でも、あたしたち家族になるのよ?ひとりだけ名字が違うなんて──」
「高校受験でも大学受験でも、難しい時期に名字や戸籍を変えたりして苦労するのは同じなんだし。大学生活が落ち着くまでは待ってみようよ」

にっこりと男に微笑まれて、とうとう母は黙ってしまった。しばらく逡巡すると、不機嫌そうに私を見据える。

「一段落ついたら、すぐに役場に行くからね」
「うん。分かってる」
「あんたの我が儘を聞くのももうたくさん」
「ごめんなさい。おじさんも、我が儘ばかりですみません」

そう言って頭を下げる。男はまんざらでもなさそうな表情をちらつかせながらも謙虚に振る舞っていた。
頭を下げたまま顔を顰める。本心でなくてもこの男に礼なんて言いたくなかった。けど、これも自分を守るためだと自身に言い聞かせる。今を乗り切れば自由になれるのだ。我慢しなければ。
それに、これからの生活のことを考えればこんなことどうってことないだろう。何せ、地獄のような日々が待っているはずだから。



15.08.25

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