いつかの君に優しい世界で | ナノ
ずれていく理性


風で砂煙が舞う。それに髪の毛を攫われながら、軽く咳をした。

暦のうえでは秋だというのに、一向に暑さが引くことのないなか、校庭で体育祭が行われていた。
生徒たちの応援合戦から始まった体育祭は、三年生を中心に大いに盛り上がっている。男子の野太い応援と女子の黄色い声援がグラウンド中に響いていた。あの中に混じっていれば耳を悪くしそうだ。

「お前も自分のクラスくらい応援してやったらどうだ」
「……そんなことするぐらいならここにいるほうがましです」

そう返すと、先生が鼻で笑った。
ここは怪我をした生徒がやってくるテントで、そこに私と先生が待機している。本当ならあと何人か役員がいたのだが、そこまで怪我人もいないだろうし、そもそも小さなテント内に人が密集するのを嫌う先生と、あまりに暇すぎて飽きた役員の意見が一致し解散することになったのだ。先生も生徒も自分勝手である。
そういうわけだからテントには私と先生しかいない。私個人としては、あのクラスのテント内にいて始終不快感を募らせるよりは、このテントにいて女子から批判をくらうほうが幾分かましなので、今回ばかりは先生に感謝した。

残暑も抜け切らないなか、グラウンドを全力疾走する生徒たちをぼんやり眺めながら額の汗を拭う。隣では先生が腕を組み、無表情で騒ぐ生徒たちを眺めていた。周りは体育祭という一大イベントに盛り上がっているというのに、ここだけがまるで音を切り取ったかのように静かだった。

「……就職はどうなってる」

不意に先生が口を開いた。私は熱中症予防のために持ってきていた保冷剤をいじりながら返す。

「まだ合否は分かりません。たぶんもうそろそろ連絡が来ると思いますけど」
「ずいぶん余裕だな」
「まあ、面接のときの感触からしても大丈夫かと。成績も悪いわけじゃない、無遅刻無欠席、内申点もそこそこ。自分でいうのもなんですが、なかなかの優良物件だと思いますよ」
「自己評価が高ェな」

ふん、と先生が鼻で笑った。
企業見学をしたときもなかなか好感触だったし、よほどのことがない限り内定はもらえるだろう。よほどのことが、ない限り。

「このままうまくいけばなんとかなると思います。試験に行ったときも良くしていただきましたし……」
「油断するなよ」
「しませんよ」

わあっと応援席が賑やかになった。どうやらリレーで後方のランナーのひとりが数人をごぼう抜きしたらしい。見事一位でゴールし、そのクラスの生徒たちが大騒ぎしていた。
それをしばらく見やりながら、先生が口を開いた。

「──何か、あっただろう」
「……何か、とは」
「しらばっくれんな」

ちら、と先生を見る。パイプ椅子に気だるそうに座る先生は、その雰囲気とは正反対に鋭い目を私に向けていた。視線が絡み、思わず顔を逸らす。まだ先生と親しくないころによくやっていた仕草だった。目を合わせれば全てを見透かされてしまいそうで、それが怖かった。それは今も変わっていないらしい。

「……別に何もないですよ。急にどうしたんですか」
「夜にバス停で会ったときから態度がよそよそしい。誰に、何を言われた」

さっさと吐け、と言わんばかりの剣幕に顔をしかめた。半分ほど溶けてしまった保冷剤が掌に水滴を落とす。

──恥ずかしいと思わないの?
その言葉が頭に反芻され、開きかけていた口を閉じた。

一般的に言えば、これはやはり恥ずかしいことなのだろう。役員交代のときはあれだけ抵抗していたのだ。それなのに態度と行動が伴っていないのだから、女子たちからすれば、私はさぞ嫌な女に見えただろう。
でも、私はそうは思えない。ここに逃げることが恥ずかしいことなら、私はどうすれば良かったのだろうか。

あの日、母から逃れようとして道路に踊り出た私を先生が拾ってくれたあの日。先生に助けてもらわなければ、今の私はここにいなかった。母に殴られ、居場所すらなく、あの男に襲われ、自ら死を選んでいたかもしれない。
その選択肢を消してくれたのは先生だ。それすらもいけないことだったのだろうか?逃げることも、逃げ道を作ることそのものさえも、恥ずべきことだったのだろうか。
なら、私はどうすれば。

「──おい」
「っ!」

語気を強めた声に、はっと我に返った。反射的に顔を上げると、突然視界に入った眩しさに涙が滲んだ。何度か瞬いて、それから横を向く。眉を顰める先生がいた。

「あ……えと」
「お前は考えすぎるきらいがある。何を言われても平然としてりゃいいのによ」
「……今まではそうしてましたよ」
「じゃあ今回は、聞き流せないようなことでも言われたか」

これには沈黙で返した。
先生が私を気にかけているのはよく分かる。でも、それすらも受け入れてはいけないこと、恥ずかしいことなのだとしたら、もう私は先生と関わることすら駄目だということになるんじゃないだろうか。

冷たさを失った保冷剤がぐにぐにと私の指で弄ばれている。遠くから歓声が聞こえる。ここは静かだ。涼しい。私の体温が下がっているからかも知れない。
不意に、先生が口を開いた。

「──昼飯」
「え?」
「保健室の鍵は開けておいてやる。そこで食いたきゃ昼飯でも食え」

どうせひとりだろ、とつけ足して、先生は居心地悪そうに腕を組んだ。

「逃げることは悪いことじゃねェだろ。誰かに頼ったり甘えたりするのも必要だ」
「……そうですね」

でも私、甘え方なんて分からないんですよ──とは言えなかった。

ひとりでいることには、ずいぶん前から慣れていた。嘲笑や罵倒だって気にしていない。もとの私に戻るだけだ。すごく簡単なことだ。
自分から遠ざけていた場所に逃げることが恥ずかしいというなら、もうそこを頼らなければいいだけ。前からずっとそうしてきたのだから、平気だ。あともう少しで卒業なんだし、私ならきっとやれる。自分にそう言い聞かせた。

「お気遣いありがとうございます。そうします」

そう言って笑ってみせた。先生はただじっと私を見つめていた。
──結局、お昼に保健室へ行くことはなかった。



15.05.04

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