いつかの君に優しい世界で | ナノ
僕が不必要な理由


バス停にあるベンチに腰掛け、ぼんやりと景色を眺める。あたりは薄暗く、時間を確認するともう7時を回ろうかというところだった。
母は今日家に帰ってくるだろうか。もしそうなら、早く帰らないとまた叱責をくらってしまう。帰って来ないといいのだけれど。

あれから学校を出た私は、真っ直ぐ家に帰れるわけもなく、ただ闇雲に走った。がむしゃらに走って、息ができなくて肺が痛んできたところでようやく足を緩める。急に走ったのと先程のことで猛烈な吐き気があった。
近くにあったバス停のベンチに座って呼吸を整える。息が楽になっても、吐き気だけは止まらない。額から流れる汗は暑さからなのか走ったせいなのか、それとも脂汗なのかは分からなかった。

彼女たちのあれは、ただのストレス発散だ。苛々を人にぶつけるだけの、なんてことはない行為だ。暴力がないだけまだ可愛い。
でも、あそこで母のことを引き合いに出されるなんて思ってもみなかった。予想だにしない展開に身体が異様に反応してしまった。もしかしたら彼女は、そうなることを見込んで母のことを口にしたのかもしれない。もしそうなのだとしたら、私は見事にその策略に乗ってしまったことになる。
悔しさと苛立ちと気持ち悪さで吐き気が止まらない。ベンチでうなだれ、頭を抱えた。

もう何本目かも分からないバスを見送って、ため息を吐く。そろそろ家に帰らないと。でも、母を前にして平常でいられる自信がない。パニックを起こしたくはなかった。
未だにうじうじと悩んでいると、不意に目の前に人影が見えた。やおら顔を上げると、私の顔を覗き込んでいたその人と目が合う。そしてヘラリと笑ってみせた。

「おー、やっぱり。高杉ンとこの保健委員じゃん」
「あ……」

癖の強い髪の毛は前に会ったときと変わらない。その人──確か名前は坂田銀時だったはず──は、ぽかんとする私に何を勘違いしたか、あれ、と首を捻る。

「え?保健委員じゃねーの?保健室にいるモンだからてっきりそうなんだと思ってたけど」
「あ、ああ……はい。保健委員です」
「だよなー、ただの生徒が夏休みにわざわざ保健室になんか行かねーもんな」
「っ、」

安堵混じりのその言葉が、棘となって私の胸につき刺さる。何も言えなくなって俯くと、異変に気づいた坂田さんが気まずそうな声を漏らした。

「あー……悪ィ、なんかまずったな俺」
「別に、どうってことないです」
「……」

吐き捨てるように言った私に、坂田さんは困ったふうな顔でぼりぼりと頭を掻く。少し態度が悪かったかもしれないと罪悪感が芽生えたところで、坂田さんが隣に腰掛けた。その様子を訝しげに見る私に向かって、またやる気のない笑みを見せる。

「そういや俺、まだ名前訊いてなかったと思うんだけど」
「え?」
「保健委員さんの名前だよ。ほら、あん時はあいつと喧嘩になって訊けなかっただろ?そのことに帰ってから気づいてよ」
「あ……えっと、水野ゆきです。その、よろしくお願いします……」
「長い付き合いになるだろうし、まあよろしくー」
「はあ」

坂田さんは勝手に私の手を握ると、半ば無理やり握手を交わした。距離感をまだうまく掴めない私はぼんやりとその様子を眺める。坂田さんの掌は暖かかった。
ひとしきり握手を交わして満足すると、笑顔のまま坂田さんが「で?」と切り出す。この突拍子のない話題転換の仕方は高杉先生とそっくりだなとこっそり思った。

「なんかあったんだろ?高杉のヤローと喧嘩したとか?なら俺加勢しちゃうよ。もうガンガンゆきの味方しちゃうよ。なんならあいつの弱味教えてやろうか」
「いや、あの……そんなことじゃないので……」
「だろうな」

あっさりそう返して煙草を咥える。火を点けて一服したところで思い出したように私を見た。

「煙草、勝手に悪ィな。嫌だったら消すけど」
「いえ、別に、気にしないです。慣れてますから」
「助かるわ」

吐き出される紫煙を目で置いながら、ふと思ったことを口にする。

「……坂田さん、いつまで居るんですか」
「へ?居ちゃまずいか?見知った顔がいれば話しかけるのは当然だろ?」
「いや、まあ、そうですけど……その」

至極真っ当な返しに、つい返事に窮する。確かにその通りなのだけど、如何せんタイミングが悪い。独りになりたいときに現れるのは少し対応に困ってしまう。わけを知りたがるかと思えばそうでもない素振りだし、いったい彼は何がしたいのだろう。─、もしかしたら、何も考えていないのだろうか?それはそれでたちが悪い気がするが。

「……あの、私」
「何してやがるペド野郎」

その場のなんとも言えない空気に我慢できず、もう帰ります、と言いかけた途端誰かにそれを遮られた。
はっとして辺りを見回す。声の主が誰なのかは、探さなくてもすぐに分かった。

「……先生」
「あーあ、バレちった」

あっけらかんとした調子で坂田さんがこぼす。
先生は路肩に車を停めていて、不機嫌そうな顔でこちらに向かってきていた。遅い時間までこんなところにいることを確実に咎められるであろう私は小さく縮こまるばかりなのに対し、坂田さんは悠然と煙草を吹かしていた。何事にも動じないその姿勢が羨ましい。

「もう7時過ぎてんのに何やってんだお前は」
「……すみません」
「ままま、特になんかあったわけでもねーんだし、そうカッカすんなって」
「そもそもてめーはなんでここに居んだよペドフィリア」
「知り合いに声をかけることの何が悪いんですか?いちいちお前に許可を貰わないといけないんですか?つーか何度も言ってるけど俺そんな性癖持ってないからね、ゆきちゃん勘違いしちゃうからそういうのやめてくんない」
「お前の周りをうろちょろしてる餓鬼を見りゃ誰だっててめーがペドだと思うだろうよ。ペドにペドだっつって何が悪い」
「いや違うから、あの年齢ならまだロリの範囲だし、そもそも俺はペドでもロリでもねえって言ってんだろうがこの真性ロリ」
「あん?やんのかコラ」
「やってやんよ今なら負けた時の言い訳も考えさせてやんよ」
「……」

出会って数秒で早くも喧嘩が勃発しそうな勢いだ。口を挟める度胸もなく、ただ二人の罵り合いを眺めるしかできない。正直、早く帰らせてもらいたい。こういう険悪な雰囲気はもともと苦手なのだ。
先に失礼させてもらおうかと口を開きかけたところで、先生がこちらを見た。その鋭い視線に思わずまた縮こまる。

「お前はさっさと帰れ。今何時だと思ってんだ」
「ひぇっ……」

あまりの剣幕に変な声が漏れた。仲裁に入ろうとする坂田さんを頭突きで黙らせた先生は、きっと私が帰るまで監視するつもりだ。
急いで立ち上がり二人に頭を下げると、私は小走りでその場から去った。ずっと感じていたあの気持ち悪さは、いつの間にか消えていた。先生に対する恐怖心がそれを凌駕したと言っても過言ではないだろう。
だから私は知らない。逃げるように立ち去る私の後ろ姿を眺めながら、先生と坂田さんが会話していたなんて、知る由もなかった。



「あの子なんかあった?顔つき変わってね?特に目」
「……」
「夏休みの方が生き生きしてるように見えたけど。お前なんも聞いてねーの?」
「──放課後、廊下でぶつかったときからあんな顔だった。莫迦なクラスメートにでもなんか言われたんだろ」
「それをフォローすんのが養護教諭でしょうが。役に立たねーなァ高杉センセーは」
「わけを訊いたところであっさり話す性格じゃねェんだよ殺すぞ。ああいうやつは何かあっても自分の中で処理しようとするってのはてめー自身がよく知ってるだろうが」
「あーやっぱりゆきもそういうタイプなのね。初対面のときにすげー親近感湧いたのはそのせいか」
「……お前は下の名前で呼ぶな。ペドが際立つ」
「え?なに?ゆきって呼んじゃ駄目なの?お前も呼べばいいじゃん、ゆきって。呼んだことないわけないだろ?」
「……気持ち悪ィからやめろっつってんだろうが」
「オイオイ照れ隠しですか?その反応はやっぱ呼んだこと」
「ねェよ殺すぞ」
「はいはい、分かりましたあ。もう何も言いません〜」
「てめーは殺す一番苦しい方法で殺す」



15.04.09

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