いつかの君に優しい世界で | ナノ
類似品を知っている


長いようで短かった夏休みも今日で終わる。夏真っ盛りのこの季節、涼しくなる気配はひと欠片もない。外から聞こえる蝉の声に耳を傾けながら、小さく欠伸を噛み殺した。
企業宛ての書類等はもうずいぶん前に済ませた。夏休みの課題はすべて既に終わっている。先生からの雑用も特に無し。要するに、暇だ。

ぼんやりと窓から覗く景色を眺める。室内はクーラーがきいているおかげで快適だが、外はきっと猛暑だ。かんかん照りとはまさにこのことだろう。この夏休み中、外で怪我してきた部活生はもれなく小麦色を通り越してこんがりしていた。
部活しないで良かった、とひとりごちて、また小さく欠伸をこぼす。そこに声をかけてきたのが、ずっとパソコンと睨み合っていた高杉先生だった。

「寝不足か」
「……はい」

素直に頷く。あれから数日が経っているが、ちゃんと眠れた日は数えるほど少ない。ぐちゃぐちゃだったベッドも整えてはいたが、あのときのことを思い出してしまうため到底使えるはずもなく、今は床に寝ていた。毛布をいくつか敷いても堅いものは堅い。加えてフラッシュバックもある。眠れなくなるのは仕方ない。

「あれ以来家に来てないのは嬉しいですけど」
「そうか」

それ以降先生は黙ってしまい、私も特にこれと言って話す内容があるわけではないので静かに本を読む。

母は、私が先生の家から帰ってきたその翌日に戻ってきた。母に変わった様子はなくむしろ上機嫌だったので、あの男は母に何も言っていないのだと安心した。最近あの人が家に来ないとは嘆いていたが、仕事が忙しいんじゃないかと適当に言うと、納得したのかそれ以上話題に挙げることもなかった。

その間私に干渉することもなく大変やり易かった。一度だけ進学の準備は進んでいるのか訊かれたことがあった。何か書類を書いた気がするが、あれからどうなったのか、と。あのときほど心臓が縮み上がったことはない。
私は強張る表情をなんとか押さえつけ、順調だよとだけ答えた。普段から私とろくに過ごしていない母は私の小さな変化に気づくはずもなく、そう、と言って機嫌良く化粧を始めた。男と会う予定でもあるのだろう。
それ以来、母をまともに見かけていない。いつものことなのでもう何とも思わない。

「──寝ろ」
「……えっ?」

不意にかけられた言葉に慌てて顔を上げる。ずいぶん長いことぼんやりしていたらしく、読んでいた本はページが進んでいない。先生は私をじっと見つめて、もう一度繰り返した。

「そんなに眠いなら、ベッドで寝てろ」
「え、でも、病人でもないのにそれは……」
「お前の場合じゅうぶん病人だろ。寝不足の患者を無理に起こして雑用させるほど俺も鬼じゃねェ。理由があって家で寝つけないんならなおさらだ」

つらつらと述べていく先生に、ぐうの音も出ない。とうとう押し黙る私に、先生が「寝るよな?」と追い討ちをかけ、私は反論することもなく頷いたのだった。

そそくさとベッドへ向かいカーテンを締めると、寝苦しくないようにスカートと上着を脱ぐ。それを枕元に畳んで置いて、ごそごそとベッドに潜り込んだ。
保健室特有の清潔そうな匂いが染み込んだベッドは、何故だか眠くても眠れない私に睡魔を呼んだ。目を閉じるとあっという間に思考がほどけて、沈んでいく。この眠るか眠らないかの微妙な感覚が私は好きだった。

そういえばここで眠るのは二度目だったか。あのときは初対面で、先生も私も互いに警戒しながら距離感をはかっていた気がする。
──いや、警戒していたのは私だけか。そう思い返して自嘲の笑みを漏らす。
きっと、気を張っていたのは私だけだった。先生は昔も今もずっとあんな感じだったように思う。私だけが変に先生を意識していたのだ。私のことが、バレてしまわないように。……あっという間にバレてしまっていたけど。

カーテンの向こうから聞き慣れた作業音が聞こえる。その音を聞きつつ、私は微睡みの中に沈んでいった。

***

変な夢を見た。
私はまだ幼くて、誰かに肩車されて見慣れた道を歩いていた。私の家の近くの、公園へと続く道だった。
季節は春で、途中に植わっている桜が綺麗に咲いていて、私はそれに大袈裟なほど喜んでいた。ひらひらと舞う花びらを掴もうと小さな手のひらを空中に突き出し、空を切る。夢中になってついバランスが崩れてしまうと、慌てたように誰かが私を支えた。
「危ないぞ、ゆき」と言って優しく笑う誰かは、男性だった。私はそれに笑って返すと、ようやく掴んだ花びらを彼に見せる。彼は破顔してすごいすごいと私を褒めちぎった。
桜が舞っている。何もかもが暖かかった。

そっと瞼を上げる。視界いっぱいに天井が映っていた。その天井がうっすらと橙を帯びていて、もう夕方近いのだと悟った。
そっと上体を起こすと、ちょうど先生がカーテンを開けたところだった。

「起きたか」
「……はい、たった今。……私、ずいぶん長いこと眠ってたみたいですね」
「寝不足だったんならしょうがねェ」

それだけ言って先生は踵を返す。私もベッドから抜け出して、枕元に畳んでいた制服を身につけた。

鞄に荷物を詰め込んでいる間、ずっと夢のことを考えていた。夢で私を肩車していた男性は、普通に考えてみれば父だろう。けれど私には父に関する記憶は一切ない。顔も名前も知らない。母は、父のことを私に何ひとつ教えてくれなかった。
夢の中の男性の顔は一切思い出せない。声も表情もまったく分からない。もしかしたら、私の想像上の人物だったのだろうか。
無意識のうちに求めていた父親を、夢に見たのかもしれない。顔はおろか名前やその他全てを知らないために夢の中の父も全てが曖昧で、それ故に何も思い出せないのだ。

そんな結果に行き着くと、不意に先生が私を呼んだ。早く帰るよう促されて、慌てて止まっていた片づけを再開する。考えに耽っていた私を、先生は訝しげに見ていた。
私の父はどんな人なんだろう。私が危ない目に遭いそうになったら助けてくれただろうか。泣いていたら優しく頭を撫でてくれただろうか。困っていたら手を差し伸べてくれるだろうか。私を、見捨てなかっただろうか。
母から聞いていた父の恨み言を思い返しながら、そんなことを初めて思った。



15.02.04

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