いつかの君に優しい世界で | ナノ
溺れる真似をする


陽が沈みかけるころ、家に帰る準備を始めた。歩いて帰る、と言う寸前に先生から車に乗れと告げられ、抵抗する間もなく車に詰め込まれた。

「要らねェ遠慮はするなって言ったよな?俺の記憶違いだったか?」
「……言われました」

運転しながらネチネチと責められ、つい小さくなる。バックミラー越しの先生の視線が鋭い。それから逃げるように窓の向こうに目を向ける。知らない街並みで、私の住むところから距離がありそうだった。昨日は混乱して泣きじゃくっていたし、どれくらい離れているのか分からなかったが、これを歩いて帰ろうと考えていた自分を叱咤したくなかった。
もう夕日は地平線に沈み、月と星が顔を出しはじめる。橙と藍色が同居する空を眺めながら窓ガラスに額をくっつける。ぬるいガラスが少し気持ち悪いが、我慢できないほどでもなかったので放っておいた。

しばらく走っていると見慣れた住宅街が目に入ってくる。住宅街を少し進んだ奥に私の家はあった。奥まったところにあるのであまり人気はなく、道を歩く人は見えない。家の電気も点いていないようだったので、おそらくまだ母は帰ってきていないだろう。
ほっと安堵したところで、車が緩やかに止まった。先生に礼を言うと、ミラー越しに目が合う。

「一人で平気か?」
「……たぶん……」
「念のために俺も行くか」
「そ、れは……大丈夫だと思います……。母から連絡も一切ないし、たぶん昨日から帰ってきてないと思う……」

ちらりと家を見る。人がいる気配はない。昨夜あれからあの男は家を出ただろうか。いないといいのだが。
電気と気配を消して家のどこかに潜んでいて、私が来た途端に再び――と考えたところで吐き気を催す。ぐっと口元を押さえると、不意に頬に暖かいものが触れた。
いつの間にか下がっていた顔を上げる。先生がこちらを向いて腕を伸ばしていて、その掌が私の頬を包んでいた。そう理解すると吐き気は不思議なくらい治まって、気が楽になっていく。

「本当に、一人で、平気なのか」

一言一言ゆっくりと区切って、確かめるように尋ねる先生に、小さく頷いた。

「もし何かあったら――ないといいけど……先生に連絡すればいいんですよね」

そう言うと先生がいつものようにニヒルに笑って返す。

「分かってるじゃねェか。――部屋に入ったら鍵して、電話しろ。いいな?」
「……はい」

ゆっくり頷くと、車から降りた。周りに誰もいないことを確認して、先生にもう一度お礼を言って家に向かう。鍵は掛かっていた。あの男も母から合い鍵を貰っていたから、律儀に掛けていったのだろうか。
そっとドアを開ける。隙間から覗き込んで様子を伺ってみたが、人の気配はしなかった。玄関横のスイッチを入れると、途端に明るくなって廊下を照らした。靴もなければ物音もしない。

ひとつ息を吐いて靴を脱ぐと、小走りで部屋に向かった。私の部屋はあのときのまま放置されていた。やはりここにも、誰かがいるような感じはない。ただ、暴れてぐちゃぐちゃのベッドとその周辺を見て不快になった。
部屋の鍵をかけたのをしっかり確認すると携帯を取り出す。言われた通り先生に報告の電話をするのだ。

『……どうだ?』
「誰もいないみたいです」
『母親もいねェのか』
「はい。やっぱり泊まりがけでどこか行ってるんだと思います」
『そうか』

それだけ言った先生の声は、安堵したのか少し穏やかだった。それにつられて私もようやく安心する。何度も先生に気をつけろよ、と念押しされて、何度も分かりましたと答えて電話を切った。

携帯を片手にちらりとベッドを見やる。早く綺麗にしてしまいたいが、だからといってそこでまた眠れるかと訊かれれば答えは否だ。
とりあえず今日は床で寝る他ないだろうか。床は堅いし冷たいし寝にくいし、疲れなんて取れるわけもない。それでもベッドで寝るよりはましだと、自分に言い聞かせて毛布にくるまった。

毛布から香る自分の匂いと、あのまま先生から借りて着ている先生の服の匂いが混じって頭がくらくらする。それが意外にも心地良かった。
寝入る寸前までずっと握っていた携帯の存在には、気づかないふりをした。



15.01.20

back


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -