いつかの君に優しい世界で | ナノ
めいめいの棺


長い沈黙が流れた。頭上から先生の視線を痛いほど感じる。けど、先生が出した児童相談所という提案だけは絶対に飲むわけにもいかず、私は俯いたまま抵抗の意志を示していた。
しばらく続いた静寂を破ったのは先生の方だった。

「そんなんで、俺が納得できるとでも思ってんのか」
「……思ってないです」

なら、と言いかけた先生の言葉を遮り、続ける。

「もしあそこに保護されれば、今度こそ何されるか分かったもんじゃない。母は狂ったように暴れるだろうし、それにあの男に何をされそうになったか世間に知れたらどんな噂を流されるか……」
「……」
「噂は必ずどこかで尾鰭がつくんです。もし事実がただの未遂で済んでいたとしても、流れようによっては私は“無理やりやられた可哀想な女”になってしまう。下手すれば就職先にまで噂が届くかも……。そうなれば周りが取る反応なんて目に見えてます。そんな、そんな惨めな思いしたくない……!うまくいけばあと少しであの家から出ていけるかもしれないのに、それをふいにするようなことはしたくないんです!」

叫んで、はっと口を塞いだ。自分でもここまで感情的になるなんて思ってもみなかった。再び降りてきた沈黙に耐えられず、口を塞いだまま視線を泳がせる。
先生はきっと怒っているに違いない。ここまで親切にしてくれてあまつさえ逃げ道も提示してくれた。それなのに私が嫌だ嫌だと子供のように我が儘を言って無碍にしようとしている。怒って当然だった。

先生が心配してくれているのだというのはよく分かる。有り難いことだし、感謝もしている。
けれど、だめなのだ。逃げてしまえば私の人生はさらに狂ってしまう。あともう少しで自由になれるかもしれないそのチャンスを、みすみす手放したくはなかった。

「ご、ごめんなさい……でも、だめなんです、本当に……許してください……」

自然と謝罪がもれた。頭はぼんやりしているのに、口からはすらすらと許しを請う言葉が出てくる。――まるで、母に殴られるようになった頃の私に戻ったみたいだ。
視界の隅に映った先生は唖然と私を見ていた。

「あと、あと少しなんです。あともう少し私が我慢すれば、そしたらきっと、私、うまくいくから……だからほんのちょっとの辛抱なんです……っ」

昨日で出し切ったと思っていた涙がまた溢れてくる。
ああもう、これじゃまるで悲劇のヒロイン気取りだ。もう既に惨めで、これ以上いやなやつになりたくないのに、溢れる涙は止まらない。
なんとか嗚咽を零さないよう我慢していると、頭上から先生のため息が聞こえた。ほら、先生にまで呆れられてしまった。自己嫌悪でさらに目頭が熱くなる。

「……泣くな」

先生が静かに言った。とても落ち着いていて、特に苛立ちや同情を含んだ声音ではない。そっと顔を上げる。少し痛ましそうな表情の先生と目が合った。
なんでこのひとがそんな顔するんだろう、と思う間もなく、先生の暖かな掌が頬を包む。そして親指でそっと私の涙を拭った。

「俺ァ何もお前を追い詰めるために言ったんじゃねェよ」
「だって」
「自分の立場から考えてみれば否が応でも児相に通報しなきゃいけねェんだけどな」

そう言って自嘲気味に笑う。頬から掌が離れていって、ひやりと冷たい空気が濡れた頬をかすめる。少しだけ、名残惜しい気がした。
ぱちぱちとまばたきをすると涙がいくつかこぼれて、それを見た先生が苦笑しながらもう一途それを掬い取る。なんだか気恥ずかしくなって、慌てて自分で拭った。

「自分が我慢すりゃァいい、なんて考えるのは虐待を受けた経験のあるやつが多い。お前もその一人だ。本当ならお前が反対してでも通報する義務がある」
「そんなっ、」
「分かってる、通報はしねェ」

通報する、と言われ声を上げそうになったところを遮られ、そのあと続いた言葉にほっとした。

「お前の言ってることも分かる。どんな反応されるかなんざ、お前が一番よく分かってるしな。これからのことも考えて、今回は報告しねェ。──ただ、」

少しだけ語気を強め、真面目な面持ちで先生が私を見据えた。

「今回限りだ。次に何かあれば俺は即座に児相に通報する。いいな」
「……何か、って……」
「俺が不味いと思えばなんでも」

そんな、と言いかけて唇を噛んだ。これ以上我が儘を言うわけにもいかないし、何より先生はチャンスをくれたのだ。卒業までうまくやれれば問題はない。いつも以上に自衛をして、やり過ごせばいい。たったそれだけだ。先生がこれだけ譲歩してくれているのだから、私も意地を張るわけにもいかない。
先生をじっと見つめて、ゆっくり頷いた。それを見た先生は真剣な表情を崩していつものように口端を吊り上げて笑う。それだけで、さっきまでのピリピリした空気が消えていくようだった。

ふと何かを思い出したのか先生は時間を確認した。まだ昼過ぎだ。どうしたのだろうかと首を傾げる。

「いま家に帰られても周りに見られて変な噂が立つかも分からねえし、陽が落ちるまではここに居ろ」
「ああ……はい」

確かに、一人暮らしの男の部屋から見知らぬ女が出てきたとなればよからぬ噂が立つかもしれない。納得して頷くと、よし、と呟いて先生が食べ終えた昼食の食器を片づけ始めた。私も手伝おうとしたのだが、鋭い睨みによってそれは阻止された。
この一連のやりとりがつい嬉しいと感じるのは何故だろうか。そんなことをする相手がいなかったからだろうか。でも、それだけじゃない気がするのだ。
急に芽生えたもやもやの理由を、私は分かるはずもなかった。



14.12.21

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