いつかの君に優しい世界で | ナノ
出来損ないの戯れ言


これまでのことを話すのには、やはり勇気が要った。私はうつむきながら、ぽつぽつと静かに話し始めた。
私が生まれてからのこと、母が変わってしまったこと、そのきっかけがあの男ができてからだということも、すべて。
先生は黙って私の話を聞いていて、時折私が混乱して言葉がぐちゃぐちゃになると、適切な質問や相槌を打って正してくれた。

あの男は、いつだって私を値踏みするような目で見ていた。歳の頃なら母と同じか少し上くらいだ。いやな視線に不快感を覚えたし、だからこそ避けていたのだが。
昨日のことは完全に私の落ち度だ。まさかあの男が母を伴わずに一人で家にくるなんて、そんなこと予想だにしなかった。

「昨日より前に、身体を触られることはあったか」
「いえ……でも、私がその場に居合わせて母が席を外しているときは、ずっと見られてました」

そのときを思い出して、胃から何かが込み上げてきそうになる。
初対面時から嫌な予感はしていた。決定的だったのは一昨年のことだ。あの日も母とあいつが家にいて、私はすぐに自室へ籠もった。それから少しして母が家を出て行き、もちろんあの男もついて行ったと思った。だから水でも飲もうとリビングに向かったのに、男は残っていたのだ。
驚きで固まる私に気づいた男が、こちらに手を伸ばしてきたのを見て咄嗟に逃げた。
このことを母に言えるはずもなく、言ったところで自分の恋人を誑かした女だと逆に怒鳴られるに決まっている。だからこそ、私は出来の良くない頭を使って今まで自衛してきたのだ。

経緯を一通り話すと、先生は深いため息を吐いた。

「……想像以上だな」

呟いて、皺の刻まれた眉間を揉む。私自身こんなことになるなんて思ってもみなかった。こんなの安っぽいドラマにありがちな話だ。こんな立場に身を置いているのに、今でもどこか他人事のように思う自分がいる。
ぼんやりとしていると急に視線を感じて、はっと我に返った。ぱちぱち瞬くと先生がじっとこちらを見ていて、途端に私は俯いた。未だにあの目には慣れない。

「お前は、このままでいいのか」

言っている意味が分からなくてぽかんと顔を上げる。

「まだ18になってないよな?なら、児相に行くべきだろ」
「児童、相談所……」

そう囁いた私の唇が、小さく震えだす。

「幼少からの育児放棄に暴力、挙げ句の果てには強姦紛いまでされてんだ。相談すればほぼ確実に保護される。そうすりゃ多少は──」
「やっ……、やめて!」

思わず叫んでいた。耳を塞いでうずくまる。私のその動揺に、先生が口を噤んだのが分かった。

「やめて、それだけは、本当に」
「……このまま放っておくってのか?お前、今度こそレイプされるぞ。そうなりゃ──」
「だめ、あそこに逃げたら、もっとひどくなる」

その一言でおおよそ理解できたのか、怒気を含んだ声の先生が静かになった。

「……前に、相談したことがあったのか」

ゆっくりと頷く。声がかすれて、うまく話せない。

「……中学の、初めのころ……。母にひどく叩かれて、それに気づいた学校側が通報して……保護、されたことがあったんです……」

そのころまでは周りも普通だった。友人もいて、家のことを除けば全てが順調だった。それなのに、通報されて保護されてから全てが狂ってしまった。

「保護されてからしばらくして、母が私を迎えにきました」

本当に反省している、もう二度とこんなことはしない。そう涙ながらに頭を下げた母に、相談員も納得したのか、あっさりと私を引き渡してしまった。
それからだ。母の暴力はさらにひどくなり、逃げようとすれば殺されるんじゃないかというくらい痛めつけられ、部屋に閉じ込められた。こうなったのもすべてお前があんなところ逃げたせい、育ててやった恩を仇で返しやがって、お前が逃げたからこんなことになってるんだ、お前が、お前が、お前が。
呪いの言葉のように何度も繰り返されるそれは、思い出すだけで吐き気がする。ずっと頭にこだまして離れない。

「……その後、母は児童相談所に通報した学校にも抗議の電話を何度もかけました。参った学校側はこうなった原因の私を遠巻きにしはじめて……噂が広がって母の異常性を知った友人は次々に私から離れていきました」
「……」

私が、逃げたから。もし逃げなければ、もっとうまくやれていたのではないか。ひとりでいると、そんなことばかり考えてしまう。
──今度はどこに逃げるんだろうね。
またあの言葉が頭を過ぎる。──逃げたって、意味ないのに──そう続くのを、私はちゃんと知っていた。だからこそ私は逃げてはいけない。逃げられないのだ。



14.11.27

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