いつかの君に優しい世界で | ナノ
首なしの捕食者


目が覚めたとき、一瞬ここがどこだか分からなかった。見慣れない部屋に驚いて飛び起きたが、昨夜のことを記憶から引っ張り出し、ここが先生の家だということを思い出すと再びソファに横になる。
昨日、先生に撫でられて泣いたあたりから記憶がない。きっと泣き疲れて眠ってしまったのだろう。そういえばさんざん泣いたせいで頭が重い。身体もあちこち痛んだが、それは多分、走り回ったからだ。

横になりながらぼんやりと視線を彷徨わせると、テーブルに紙切れがあるのに気づいた。腕を伸ばしてそれを手にする。『昼には帰る』とだけ書かれた走り書き、先生が書き置きしたのだとすぐに分かった。男性にしては綺麗な字だ。
壁時計を見ると午前10時を過ぎたころで、私にしてみれば充分寝過ごした時間帯だ。今までこんなにゆっくり寝たことなんてなかった。頭が重いのは、この寝坊のせいもあるのかもしれない。

テーブルに書き置きを戻し、ゆっくり起き上がる。特にすることがなくて困った。いつもならもう既に学校にいて、雑用や自分のことをしていた。この夏休み中、こんなふうにゆっくりすることがなかったため何をすればいいのか分からなくなっていた。
こういうときは身体を休めるのが一番だ。……身体って、どうすれば休まるのだろう。図書館や、保健室で作業の合間にするような休め方は違うし、横になっているのが良いのだろうか。でも無理して寝転がるのはむしろ身体に悪そうだし、それなら起き上がっていた方が?
簡単なことでひとしきり悩んだ末、結局、起きていることにした。ソファの上で膝を抱え、その膝の間に顔をうずめる。ふんわりと香った匂いに、何故だか鼓動が高鳴った。──他人の服を着るなんて、そんな機会が滅多にないからだ。だからきっと緊張してるんだ。そうに違いない。

「絶対そうに決まってる……」

自分に言い聞かせるように言った独り言は、広い部屋にいやに響いた。

***

しばらくの間じっとしていると、玄関から物音がした。長い時間が経ったようでそうでもないような、曖昧な感覚にぼんやりと瞬く。時計はお昼を少し過ぎたころだった。
ドアの開閉音と廊下を歩いてくる足音、リビングのドアも開かれ、とうとう先生が現れた。先生は私と目が合うと少し面食らったような顔をして、それから何事もなかったかのようにキッチンへと足を運んだ。

「……おかえりなさい」
「ん。起きてたのか」
「くつろぎすぎるのは失礼だと思って」
「そういう無駄なところで遠慮すんのやめろ。腹、減っただろ。冷蔵庫ん中のモン勝手に使って良かったのに」
「それはさすがに図々しいと思います」
「……それもそうだな」

先生は静かに頷いて冷蔵庫の扉を閉める。そして「ちょっと待ってろ」と言い残してリビング隣の部屋に行ってしまった。かすかに聞こえる物音を耳に入れないようなるべく努め、また膝の間に顔をうずめる。
先生はすぐに戻ってきた。部屋着に着替えた先生は再びキッチンへ向かうと、手早くお昼ご飯を作ってくれた。私も手伝おうとしたのだが、先生のひと睨みによってあえなく引き下がる結果に終わってしまった。

「いらねえ遠慮はするなっつっただろ。よく寝られたか?体調は?」
「筋肉痛が、ちょっと」
「なら余計大人しくしてろ、そんなんで手伝われりゃこっちが気が気じゃねェ」
「……すみません」

素直に謝る。先生はご飯を口に運びながら呆れたようにため息をついてみせた。
先生の作るご飯は美味しかった。誰かとご飯を食べるということ自体めったになかったから、それもあって美味しく感じたのかもしれない。

「ご馳走さまでした。美味しかったです」
「……そうかい、そりゃ良かった」

少しの間を開けて返される返事は、あまり言われ慣れていないためのものに感じた。それになんだか笑みがもれる。

「誰かと食事をするなんて、何年ぶりだろう」
「……今まで、ひとりで食ってたのか」
「はい。小さいころから母は家を空ける人でしたから。久しぶりすぎてなんだか変な感じ」
「……」

先生が少しの間黙り込み、私たちの間に沈黙が流れた。昨日と違い嫌な静けさではない。時計をぼんやり眺める。秒針を目で追う。
秒針が2周とちょっとを過ぎて、ようやく先生が口を開いた。

「──さて……」

昨夜と似たような切り込み方だが、昨日と違うのは、その口調が明らかに強い意志を持っているということだった。

「俺ァ他人に口出しするのも面倒だし、お前自身が話をするのを嫌がってたもんだから今まで何も聞いてこなかったが」
「……」
「今回は明らかに訳が違う。何があったか、話してもらうぜ」
「……」
「言える範囲でいい、とにかく、説明が欲しい」

先生の目は真剣だった。その目に魅入られて、一瞬だけ、世界から音が消え失せる。初めて先生と目が会ったときと同じように、一切の音がなくなった。もちろんすぐに耳は音を取り戻したのだが、なんだかまだぼんやりとしている。
先生に真っ向から来られ、拒否することなどできない。その選択肢すらないのだ。
私は先生から視線を外しゆっくりとうつむくと、静かに瞼を下ろした。

「……分かりました」



14.10.24

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